2011年 ゴッドファーザー逍遙記
2011年12月24日☆ついにスイブです
ついにクリスマスイブまで来てしまいました。今年は色々な事が有り過ぎて、とても複雑な気持ちですが、生物が多様な生き方をしているように、人生も一人ひとりの多様な暮らしがあるものと結論しました。すべての事象、現象をふまえて、「ビバ ハレルヤ メリークリスマス」です。
6月なにげなく開いた旧約聖書の「ヨシュア記」の中に以前にもこのような災害が起き、その時神はその事象を罰したとありました。なんとなく周りで起きている事象に合点がいくものが多くあり、信じる事にしました。
20歳台前半、バスに乗って矢本、石巻の45号線を飯野川方面に向かってたら(ちょうど今頃、冬休みだろうか)いまの日赤石巻病院のあたりにさしかかると、中島みゆきさんの「時代」が車中のラジオから流れて来た。この時がこの大ヒット曲を初めて聞いたときでした
おなじみの「まわる まわるよ~時代はまわる 喜び 悲しみ繰り返し~」というフレイズに当時なにか甘美な悩みでもあったのでしょうか?いたく共感しましたが、されど今は「まさにその通り」で「時代」に癒され忘れることが出来ました。そして、このたびの悲しみも時が癒してくれるものと信じたい。今年のイブは言葉少なく、メリークリスマスです。
2011年12月13日☆忘年会・クリスマス?
先日、東京で忘年会と少し早めのクリスマスをしてきました。
2011年12月5日☆いよいよ始動 海洋博覧会のへ準備会合
昨日、仙台国際ホテルで復興・防災・海洋博覧会の事務局と党政府関係者での準備委員会の顔合わせ、提案文書の確認会議がありました。
今回の確認ではいまは辛くても「三陸はこのままで良いのか?」「災害に負けてたまるか」という私達の思いを、新しい復興・復旧のビジョンに託し、新しい技術革新や産業興隆で、雇用の拡大、新たな環境問題、エネルギー問題にも取り組める施策で、これからの事業に結び付けて行く、と言う方針が確認されました。
おおくの皆様の博覧会への希望、期待に応えられるよう邁進したいと思います。今後ともご理解ご支援のほどをお願い致します。
2011年11月1日☆復興・防災・海洋博博覧会について
いま、三陸の復興・防災振興・海洋資源の新たな利活用(海洋ニューディール政策の拠点をめざす)をはかり加速、アピールするために、ある程度復興にめどがついたら、オリンピックの共同開催とともに、三陸海洋博覧会のプランが持ち上がってきました。
<素案>
◎ メインテーマ 「海と人類の調和と未来」
メインパビリオン 石巻・南三陸・気仙沼(予定)
1)復興への歩み→現況→未来へのビジョンのパビリオン
2)防災→地震予知→防災施設の進化→防災研究所の設立のためのパビリオン
3)海洋博→あらたな栽培加工漁業の未来→海洋資源の開発と採集技術の構築のためのパビリオン
以上から
☆未来に向けた「海と人類の良好な関係」を提示する
◇特に海洋博から獲得される将来的利益として以下の項目
☆ テーマと目的 <海洋ニューディール政策による財政再建の道筋の構築>
A)レアメタル、レアアースの海水からの抽出(海洋鉱物資源)の獲得
B)藻類バイオマス「オーランチオキシトリューム」からの石油の精製
C)海藻類から「フコイダン」などの人体に必須な多糖類を利活用する(健康、創薬・海洋バイオテ クノロジー)の推進
上記などから、海洋資源による新たな技術革新(イノベーション)を産み、三陸を食品加工、海洋鉱物資源、バイオエネルギー、創薬などのコンビナートのモデル地域とする。
◇☆◇ また、これらにより獲得したレアメタル、レアアース、石油など海洋資源を現金化し、地方の独立財源の基にする。
さらに将来的には全国的に規模を拡大して、これらを国債費残高1000兆円を解消する為の資金の、裏打ち資産に構築することを目的とする。
例<日本近海には約1000兆円分の原油が埋蔵している>
その手法、手段の手始めとして「ソブリン ウェリス ファンド」を導入するのが目的である。
以上、これらのビジョン、施策を起爆剤に、三陸を災害をも克服し震災以前にも増した、世界の先進地であることを、アピールするのが目的です 。これを全世界に発信し、同じく災害で困難な状況にある地域の方々に「諦めない」夢と希望を示すことが使命です。
そう「信じる者は救われる」「日はまた昇る ネバーギブアップ」です。
2011年10月27日☆哀悼・北杜夫様
愛読書、兼文章の師、北杜夫さんが亡くなりました。
二十歳前後のことでした、北さんの作品に出合ったのは、当時ちょうど、デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの、哲学書にあたっていた頃のことで、カントとショーペンハウエルはなんとかなりましたが、さすがにデカルトは頭にこたえました。
そんな時何か気軽に楽しめる本はないかと、書店で阿川先生のコーナーに立ちより、何気なく手にしたのが北杜夫さんとの対談本でした。そこではあの謹厳実直な阿川先生が、北さんと実に楽しそうに対談しているではないですか。
その阿川先生の意外な面に付き合ってる北杜夫って誰だっけ、と記憶を巻き戻すと「そうだ、たしか茂吉の息子じゃなかったか? へー」という感想が北さんの作品に出合うきっかけでした。
その後数日してまた書店に立ち寄り購入したのが、文庫本の「どくとるマンボウ青、由香さんが連れ出し、ようやく出て来たのでした。
2011年9月19日☆復興と歌津魚竜について
今朝の朝日新聞の「科学欄」に『太古の東北 海に爬虫類』とあり、「歌津魚竜」のことが載ってましたので、復興後の歌津の観光PRの一助に、と思い一文を供します。
歌津魚竜というのは1970年に発見された、世界最古の爬虫類<魚竜として>の化石で、その後の陸上で巨大化した恐竜のご先祖さまです。約2億6千万年前に生息していて、陸から海に活動の場を移したイルカ及びカジキマグロに似た、竜と魚の特徴を維持した爬虫類と両生類の中間種と思われます。
この歌津魚竜が発見されるまでは、ほんの近くの石巻市の稲井という所から発見された、稲井竜というのが、世界の考古学上で、一番古い化石として名誉を保っていました。こちらは2億3千万年前ということで、わずか3千万年のちがいで、歌津魚竜にその名誉の座を奪われてしまいました(笑う)。
当時発掘に立ち会った私は、嬉しいやら、申し訳無いやら、苦笑いしたのが昨日の事のようです。高校2年の秋でした。発見したのは東北大学の理学部の先生です。地質学の調査で偶然発見したと言ってました。
そのときNHKの撮影があり先生も若く23~4才に見えました。いまは教授をなさってると聞きました。連日撮影があり、てっきり自分も写ってると確信してましてが、残念ながら、一回だけ、それも下半身だけしか写ってなくてガックリしました。
その下半身男がなぜ自分と判ったかというと、当時私は青いジーパンとバイク用のブーツを履いてたので一目瞭然で判明しました。(足元の岩場を掘るわけですから脚しか写らない)のです。ところがこの事をいくら家人に力説しても中々了解してくれなくて、ちと不満でした。
私とすれば初のメディアデビューでしたが、下半身だけの出演で次回にかけることになりました(笑う)。
そもそも地質学や考古学に興味を抱いたのは、あの三陸の黒く連続して峨峨とそびえるリアス式海岸の、成立の仕組みが知りたかったからです。
リアス式海岸とは、スペインのリアス地方の海岸線が、三陸と同じように、鋸の刃のようにギザギザに入り組んで、港湾をなしている様から命名された学術用語です。ここも牡蠣の名産地だそうです。
三陸の地質は南は牡鹿半島から北は八戸付近まで、黒い粘板岩が特徴でその上に黒松が群生しています。この植生が「根付魚」といわれる近海魚を育む海の揺り籠といわれ、多くの魚介類が繁殖します。まさに三陸の大自然からの、あふれんばかりの贈り物です。
さらに北からの親潮と南からの黒潮が、金華山沖で合流するので寒流系の魚、暖流系の魚の多くが餌を求めあい、また同種同士が合コンして、多くの子孫繁栄が行われ世界有数の魚場といわれます。これらが三陸の豊饒な海の源です。そして神の惜しみない恵みです。
で、わたしが興味を持ったのが永遠とどこまでも続く、三陸沿岸の黒い岩礁、また、隆と聳える断崖絶壁です。すべて粘板岩、玄昌石と言われ「雄勝硯」の原石です。東京駅の屋根のスレートはここの石で葺かれ、世界的にも有名です。
そして、稲井竜も歌津魚竜もこの粘板岩、玄昌石の中から発見されました。稲井竜の発見はやはりスレート用の玄昌石の切り出し場からでした。これらの竜が生息した時代は古生代から三畳紀の間で約2億5千万年前から3億年まえ前後です。
この後が中生代、ジュラ紀で日本にはかつて、存在しなかったと言われ続けた「首長竜」が生息していた時代です。映画、「ジュラシック パーク」はこの辺の年代が舞台、テーマです。
それで、この日本には居なかったと言われた「首長竜」が、福島県の高校生によって発見されたのも忘れられない出来事でした。わたしが中学3年の時で、ちょうど、その年の夏休みになんとしても、粘板岩の生成が知りたくて、断崖をよじ登り調査した年の秋の事ですから、印象深い出来ごとでした。
また、学説に無い「首長竜」の発見がショックと混乱に拍車を駆けました。今に繋がる「フタバスズキリュウ」のことで大発見でした。で、この時の発見者の高校生の方は後に考古学の世界に進んだと聞きました。
まっ、わたしの場合は地質学も考古学も専門ではなく、ただの探求心でしたので、新発見云々は問題ないのですが、実はこの中3の夏休みに行った粘板岩の調査で、新たな疑問にぶち当たったのでした。
ちなみに、その疑問が氷解したのが、直き最近2008年のことでした。この年新たな両生類の世界的大発見が、歌津で有ったからです。
そう、わたしの粘板岩の調査で生じた疑問はずっと解決される事なく、この2008年の夏まで持ち越されていました。これがチューター、指導教官のいない専門外の悲しさですね。あとは作家としてのスキルを駆使して解析する訳ですが、ただ、粘板岩、玄昌石、玄武岩の組成については未だに分からない点が残っています。
で、わたしを長い間悩ませた、中3の時の調査のことですが、なんと、粘板岩の崖をよじ昇っていた時、なに気無く手を懸けた岩が急に割れ、中から「ウズラの卵大」の小石が出て来たのです。
「これは、なななぁ~んだー」ガーンです。
なんと周りの地層を良く見ると、粘板岩の中に丸みを帯びた玉砂利が混入していたのです。(丸い小石は河原で生じる物)で、浜辺にある砂利は大方、平べったい平面的な小石が主です。
「てっ、事はナニカー、ここが河原だって事かー」でも、足下の崖下は黒潮洗う大海原です。訳がわからなくなって来ました。(その他にも2つの疑問)で 大難題となりました。
ちなみに、この疑問をずっと引きずり、地学の専門家らしき方々に遭う度に教えを乞うのですが、誰も明確な答えは無く、2008年夏に東大の院生、中島保寿さんに出遭うまで、答えは持ちこされました。
「エー、玄昌石てぇー層理じゃーないのかー」という物凄い疑問譜???です。
そう、「層理」というのは玄昌石が出来る時、土の粒子が水底に沈殿し、粘土となって、何層にも重なった所に地圧が加わり地層<層理>が出来、さらに火山等の熱が加わってあの黒い岩、岩石が出来るのです。
そのため、「雄勝硯」の原石にしても「スレート用」岩石にしても、この層理を目印に横から軽く切れ目、衝撃を与えただけで、その層理にそって、簡単に二つに「パカーッ」と割れるのです。ですから、決してその中に「ウズラの卵大」の玉砂利が混じっていてはいけないです。
なぜなら、その組成が深い海底 の比較的安定した場所に、中国大陸の黄砂などの粒子が降り注ぎ、長い間沈殿して、層を成したところに熱が加わり出来た物と、自分なりに結論していたからです。もちろん、当時のどんな教科書にも、粘板岩の組成、成立ちは不明と書いてあったからでした。ジャン ジャン。
それが、突然、2008年の夏に東大の中島さんが同じ「歌津」の「唐島」という小島で「歌津魚竜」よりもさらに古い年代の、両生類の化石を発見し、世界的な業績を揚げたから、「さぁ~大変」となったのですが、同時にわたしの長い間の疑問<粘板岩の中に混じる>「ウズラの卵石」がどうてして形成されたかの疑問が、たちまち氷解するのでした。
そのいきさつは次回に乞う御期待です。
中学時代の調査から幾星霜、突然2008年6月 突然、南三陸で新たな化石発見が報じられました。それも歌津魚竜よりさらに古い年代の両生類とのこと。「ラッキー」です。これで世界的なタイトルが、またひとつ加わりました。
ただ、この時、わたしは現在手がけいて、製品化したワキガ用化粧水「君香」を早く世に出して、多くの人に届けようとバイオの研究に没頭していました。
ここで私に対してよく言われる「そんなに何からかにまで、どうやって考をまとめるの??? 頭の中は一体どうなってるのォー」というクエスチョンがよくありますので、その創作の秘密のほんの一端を明かし、読者の皆様にサービスとします。(笑う)
普段は小説、コンテンツ、経済学、政治・社会科学、バイオ、その他を順繰りに考えます。その時間割りは長年の習慣で、大体バイオリズムが決まってます。ただ、テーマによっては長考というときもありますので、まちまちです。
結論が出そうなときは何時間でも続き、2時間ぐらい考えても結論を得られないときは、別のテーマに移ります。その間に頭を切り替えるため、よくベランダに出て植物の観察とケアをします。これがまた、バイオの研究に繋がりますが、それが癒しと気分転換に役立ちます。
あと、寝るときは何も考えません。軽くお酒を飲んでそれでおしまいです。ただ、時には考えなければならいテーマがあり、かつ時間がない時は何個かテーマをピックアップして、明日まで結論を出すように、自分に言い聞かせて眠ります。すると朝には結論が出ています。(笑う)
また、どうしても読なければならないけど、その時間のない課題図書などは枕もとに置いておきます。すると朝までにはちゃんと結論が出でいます。これを「まるでSFみたいな話」と家人は非難します(笑う)。
これがすこし過ぎるときがあり、これをS・K・Nと言うのですが、たいていいびきをかいて寝ているそうです。つまり飲みすぎです。そのS・K・Nという符号は若いときからの習慣で、知る人ぞ知るで笑いのネタになってます。それは何か不満があったときの自棄酒です。(笑う)
それは、お酒を飲んで寝るとき<SAKEでも、KAxKURAxて、NERUKA~>と言うセルフの頭文字で、眠るとき「S・K・N」と唱えます。すると寝つきは♪goo~ goo~♪とGOODですが、多少がらが悪いのでこれ以上は書けません。(笑う)それでも朝には考えた結論はちゃんと整っています。(笑う)
で、ときに、データがちがい結論が間違ってる時があります。そのさいは即「悔い改め」ます。そしてまた資料を点検し直し再検証します。そうしないと永遠に「理路整然」と間違った自説を唱えることになります(笑う)。また、進歩が止まります。
この習慣の出典はフォークソングの神様「岡林信康大先生」の「山谷ブルース」の一節を若いころ好んで真似たからです。♪~今日の~仕事はつらかった~ あとは~焼酎をあおるだけ~♪ です。
なんらつらい仕事なんかしないし、デガダンでもないのですが、男は大体こんなもんでしょう。
「フォークの神様こと・岡林信康大先生」のことはまた何時か、稿を改め書きしょう。力が入ります。(笑う) つづく ナショナルグラヒックス
2011年9月13日☆懸賞公募
コスモス企画ではこの秋のコスモスの花の写真、映像、動画を募集します。また、ならんで、コスモスにまつわる俳句、短歌、エッセイも受け付けます。もちろん、賞品もご用意しています。
コンテストは毎年行い、特に写真の特賞は当企画のホームページの背景、壁紙として一年間採用されます。そして、動画、映像の入賞作品は当郵映テレビにアップします。
応募は終了しました
2011年9月4日☆オリンピックのこと
今朝の新聞に2020年に開かれるオリンピック開催地の、候補地選定会議が来年9月にIOCで開かれるとありました。あと約10年後ですが「その頃には東北の被災地も相当復興してるな」と思いました。
オリンピックは確か東京が再度誘致を働きかけていたと思いますが、いっそのこと会場を被災地東北にも置き共同開催はいかがでしょう。さいわい仙台には「利府グランデ21」とかいう、たしか、7万人ぐらい入るスタジアムがあったはず。
あとは、ヨットの気仙沼、競艇の石巻、マラソンの仙台、名取、岩沼も誘致出来て、ほかに岩手や福島でも得意競技をいくらでも誘致出来ます。(これによって道路などの復興プランも早まるはず)
関係者の皆様、本気で誘致をお考えなら東北もよろしくお願いします。
そしてIOCにも私達の震災復興に掛ける情熱を知ってもらい、また、防災のテーマを全世界に発信すること、ならびに世界中の観客に復興の様子をアッピールし、これまで頂いた全世界からの篤い支援にお応えしたいので、ぜひ、よろしくお願いします。
皆様のご理解が頂ければ私も動きだす事にします。
2011年8月26日☆オールニッポン エンターテイメント ワークスの発足
2009年に経済産業省の肝いりで発足した「産業革新機構」の中に、この度オールニッポン エンターティメント ワークスという、新たにエンターティメント部門が発足することになりました。
この組織は元々経済産業省が関わっている各企業の、先端的経営資源を積極的に世界市場に売り出そうと、企画された投資部門でした。
各企業が持つ革新的技術や冒険的アイデア、もしくは新しい産業に育つシーズを発見し、積極的に投資しょういう組織です。資金は国からのものを含む約1兆円に届く9000億円です。
私的には2009年の発足時から注目し、当企画商品「君香」を世界的ブランドにするためのプロジェクトが発足する時期に、提携することを考えていました。
それがこの度エンターティメント部門も発足することになり、 私の作品、小説「J・F・Kダブルスティツ」ほか20作のハリウッドでの映像化に向け提携、協力をすることになりました。
詳細はこれからですが、ハリウッド等で活躍出来る、当コスモス企画のエンターティメント部門の、スタッフの充実を考えています。
脚本、映画音楽などに「我こそはと思われん」方のチャレンジを受け付けます。
ちなみに産業革新機構のHPは ☆こちらです
◎ 〒 あと、このたびの災害に遭った三陸沿岸の方々を応援するためと、いちはやく失われた郵便局の機能を回復させるためにも「ふるさと小包」などを活用し、郵便局の正常営業と販促を支援することになりました。ゆくゆくは三陸の海産物等をふるさと小包や郵パックを利活用し、販路拡大を図りたいと思います。
これからも支援のために三陸の物産、ブランド品の益々のご愛顧、ご購入をお願い致します。
2011年8月11日にウクライナのキエフでアポカリテプィックサウンド『ヨハネの黙示録』と思われる奇妙なラッパの音が初めて鳴り響きました。
2011年8月10日☆全世界にむけてお礼の七夕飾り
仙台七夕は震災後とはいえ華やかに例年どうり開催されました。ただし、パレードなどは自粛し、被害にあわれた方々のためにも哀悼の意を示しました。
そんな中、南三陸、歌津中学校で制作された飾りがあると新聞とテレビのニュースで知り、見に行ってきました。
その中のメッセージの白幕に「全世界のみなさんありがとうございました」とありましたので、写真をアップしました。飾りは遠慮をして小ぶりでしたが、メッセージは「いつもながら気宇壮大なメンツだなぁ」というのが感想でした。
なにかあってもすぐ笑いに変えよう、困難は黙って立ち向かおうのスタンスが読み取れました。
そう 校歌の一節「明日あり、友あり、道あり」が活きてますね。
「日はまた昇る、ネバーギブアップ」です。
2011年7月12日☆盛大かつ華やかでした
9日の相知明日香さんのリサイタルを鑑賞して参りました。会場は六本木 泉ビル34F・全面総ガラス張りの最上階で、ちょうど夕暮れ時でしたので、東京のスカイクレイパーが、赤い夕日に染まり行く中での、ラグジュアリーで、ステキな演奏会となりました。
明日香さんは美しく才能も豊かで、将来が嘱望されるアーティストです。今後は演奏会はもとより、芸能活動も続けるそうで、益々才能に磨きが掛かるだろうなと思いました。いろんな事を勉強してそれを教養に高め、きっと将来も名の残るアーティストになります。「私が保証します」(笑う)。
さっそく関係者の方と明日香さんの、今後の活動として彼女を主演とした、映画や東日本復興コンサートの可能性について話して来ました。映像は時代物、現代物などをいま構想を練り始めました。乞うご期待です。
2011年7月3日☆相知明日香さんのリサイタル
7月9日(土)に六本木 泉ガーデンタワー34Fで
相知明日香さんの東京藝大卒業リサイタルがあります
くわしく&お申し込みは
オフィシャルサイトは
『MY NOTE』
コスモス企画一押しのアーティストです
よろしくお願いします
2011年6月22日☆夏至です
ついに夏至、夏に至るです。
いよいよ年初より進めてきた「君香」とお部屋用消臭機器「ピコレット」の販売が始まりました。
アマゾンでも購入出来ますのでよろしくお願いします。
2011年5月27日☆ロッキード事件・浜田幸一氏の告白
五月二十日にポプラ社から発行された浜田幸一氏の著書「YUIGON」の中で、氏がこれまで口を閉ざしていた、ロッキード事件に関連し、ラスべガスで約5億円をすって議員を辞めた経緯の真相を初めて明かにしています。
そして、結論から先に言うと私が書いた小説「田中角栄・野武士の時代」の通り、それは博打に負けた事にして、アメリカ側に渡した賄賂のお金であったことが述べれています。詳しくは当著書の124ページ「ラスベガスに行ったわけ」を御読み下さい。
これは浜田さんが生きながら、隠れた歴史の証人になってくれた極めてレア<稀>な証言です。それは歴史的にも、ロッキード事件の真相と再検証の恰好の証言となりました。事件の真相解明が待たれます。また、近代史の常識のひとつがウキリークスがなくとも覆りそうです。
真相が明かされれば20世紀の謎のひとつが解けます。追跡取材と検証に注目です。あとに続く方々に期待しています。これからはこの分野を手がけた人が日本のジャーナリズムをリードすることになるでしょう。
2011年5月24日☆「君香」の新発売について
汗ばむ季節となってきました。また、今年は節電の夏で暑さがひとしお恨めしい時期となりそうです。例年、制汗防臭対策でお困りの方に朗報です。6月10日ごろからリニューアルな「君香」が発売されます。乞うご期待です。
2011年5月22日☆HPのプチ修正について
デェオドラント「君香」の新発売に向け、ホームページのプチ修正を行いました。引き続きこちらのページでお楽しみ下さい。
あと、5月10日締め切りの朝日新聞<ニッポン前へ委員会>の募集論文「東日本復興計画私案」に応募しました。内容は震災後多くの方々にお話した復興プランを論文化したものです。ご理解いただき実行されれば幸いです。
2011年4月23日☆「朝日新聞の震災論文」の募集始まる
朝日新聞が募集した震災について応募することにしました。以下内容を記載します。
(2011年) 平成23年4月24日
【朝日新聞】 『ニッポン前へ委員会』主催
復興提言募集:応募/3・11日本列島改造論
東日本復興計画私案 仙台市 三浦二三男
〈はじめに〉
平成23年3月11日(木)午後2時46分に東日本をマグニチュード9の巨大地震が襲った。この未曾有の大災害から今回、新たにフィードバッグすべき、災害予防、防災対策は広範で深甚なものとなる。それは単なる従前の復旧ではなく、従来のコミュティーを基に新たな街作り、あらたな生産インフラの構築、また新しいライフスタイルを目指して、これから訪れる少子高齢化、過疎化にも対応し東北地方が全国に魁としてのモデルケースとなる復興計画でなければならない。
さらに、このたびの東日本大震災で判明したのは、想定をはるかに超える比類のない規模の大災害であった事である。従ってこれから論じる、災害対策や復興策はこれまでにない新たな視点と発想で構築され、そしてその復旧復興の暁には東北と日本の未来は、新たな技術革新による、豊かで安全安心な社会でなければならない。
【本論】
(1) 現状 〈発想の転換の必要性〉
(問題点)として「想定を超えた災害」
そこで、まず初めにかわらざるを得ないものとして、震災が発生してその初期の対応に不手際があった。その原因として問題となったのが、地震と津波が想像を遥かに超えた災害のため現地の状況、事情、情報が従来の防災システムでは速やかに把握出来なかった点にある。原因として〈A〉被災地が広範因に及んだこと〈B〉通信手段の不能、停電(電話、無線連絡)の設備が破壊された事、連絡網の壟断(行政組織の根本からの被災による消滅)、連絡手段の消滅(道路の崩落流出、港の破壊による海上運航の困難)上空からの連絡手段の未整備が上げられる。
(2) 改善点〈対処法としてあらたな装備の常設〉
これに対してこれからの設備の必要な物のとして(イ)通信手段の確保として避難所への衛星電話の常設、(ロ)それらの避難所を使用維持する電源車、浄水車、浴槽車、キャンピングカー、水上バイク、燃料車等、これからを空輸出来るヘリコプターを搭載することが出来る揚陸艦を三隻建造し北は北海道・東北用に塩釜に配備する、中央は関東・中部用に東京湾に係留する。南は関西・四国・九州用に大阪湾に係留する必要がある。
また、ヘリコプター等が使えない場合は落下傘部隊とレンジャー部隊でもって現地の現況をいち早く探索し報告する。将来的には人工衛星による探索と捜索も行う。
以上が基本的に変わらなければならないものである。
(3)復興の理念〈震災初年度から二年後のありかた〉
(中央政府に消防庁と併設して災害対策庁を設置)
(設立理由として)「近年の災害の頻発により」
これまで災害といえば火災、台風、洪水、雪害、地震と多くは局所的でその発生頻度もこれ程高くは無かった。しかし、近年、ゲリラ豪雨などの急激で大型の災害が頻繁に起きるようになって来た。また地球温暖化の進展も加速されて、本格的「災害対策庁」の設立も考慮しなければならない。
(対応策)として「救難隊の海外派遣・観光交流」など
これに対応して災害対策庁を設置し、頻発する災害に備える。また、近年諸外国でも大規模災害の発生が顕著で、お互いに救援隊を派遣している所である。当然世界的にグローバル化に向かうのは必然なので、防災資源を世界に向け集中することは将来的な投資にもなる。組織の有り方として、要員は消防庁、自衛隊、民間人を特別選抜して、災害の研究訓練を主な任務とする。
(研究・訓練項目)として
地震、津波、原子力関連、化学物質、バイオハザード、火災、自然災害等の本格的研究訓練機関とする。
設置場所として、今回災害の激甚地だった、気仙沼、南三陸周辺とし、この研究教訓施設を設置する事により、未来永劫、災害の教訓地として、防災意識の劣化、形骸化を戒めるものとする。
(観光・交流)として
また、いずれ、復興のための護岸ハイウェイを構築し、この度の災害で当地が世界的認知を得て各国から多大なる義援金や援助などを頂いたので、復興の暁には地震津波をテーマとした防災観光を企画し、全世界から観光客を誘致し三陸地方の資源、製品、海産物を一気に世界的ブランドにする。
「一例」として「豪華客船の石巻、金華山の定期的寄港」などが上げられる。
〈復旧・復興院を現地の最寄りの都市に設置する〉
(理由)
被災地を復興するには、直接被災現地の声を聞き、復興のビジョンを描かなければならない。なぜならば、被災地にとってこれから十年〜二十年間にわたり復興が、ライフワークになるので息の長い、根気のいる対応が必要になる。そのため短期的な復興支援では住民の反感を買う恐れるがあるので注意する必要がある。また、この復興対策が今後の日本の有事の際のモデルとなるので、必ず良い成果を上げなければならない。
そのさい新しい復興計画は技術革新をともない経済成長に貢献することが望ましい。復興院の設置場所は災害地の中心である仙台市に置く事を検討すべきである。
〈東日本災害復興特別財政投融資の発足〉
(理由)
復旧・復興資金は建設国債で賄うのが原則である。従って大規模な財政出動には財政投融資の復活が望ましい。
いずれ、郵便貯金の財政投融資の再開も考慮する必要がある。
〈仮設と復興住宅の有り方〉
仮設及び復興住宅は従来の平屋一戸建てだけでなく二階建て、場合によっては四階建の公団方式で建設し、復興後は他の地域からの人口流入、過疎化対策として入居者を呼び込むための施設とする。
〈被災地と自衛隊の有り方〉
今回の救援、救護の活動で最も成果を上げた組織は自衛隊であった。その中で今後の自衛隊の救援任務に一程度の行政機能の代替化も検討する必要がある。
(行政機能の代行)
例えば(1)南三陸町場合、職員の大量被災で役場機能の大幅な低下が発生した。その際、県や国からの取り急ぎの、支援金や補助金など、現金、公金の管理支給の実務の代行。(2)被災地における治安維持、この度の災害で警察など治安機能が壊滅した地域もあり、窃盗などの発生も見られた。これにも自衛隊の公安機能(内調)によるパトロール、取り締まりにも期待したい。
(3)今回の災害で顕著だった各地のガソリン不足のトラブルに付き、自衛隊の燃料車の活用が望まれた。特に被災者は現金持ち合わせが困難なので、役場または自衛隊から配給券を受け、ある程度の燃料を配給しともらう。
ある一定以上の使用者には、後日請求があることを通知する。
(救援物資の確保、配付)
救援物資の受け入れ、仕分管理をある程度、各自治体職員と共同して貰うのが望ましい。また、不足してる物資等をリアルタイムで把握し、自衛隊の兵站機能を活用して調達して貰う。つまり、物資不足も自衛隊に行けば手に入り、安心できるという体制が望ましい。
政府直轄の「生活相談の窓口」の代行
以上これらは自衛隊の災害時の臨時行政府の設置である。その命令系統は各司令部と被災自治隊の長と協議の上で遂行する。(法律改正が必要)〈地方自治法、自衛隊法〉など
〈ボランテアの有り方〉
日本のボランテア活動は阪神淡路大震災で、ほぼその産声をあげたと言われますが、それから十五年、この度の震災でも多大なる貢献を頂きました。ただ、その善意に感謝すると共に、その各たる財政支援も図る必要がある。もとより、ボランテアではありますが、継続して被災地に応援を頂くなら、NPOを含め多少のホローも必要です。そこで、あくまで(NGO)と言うことで、その資金的調達法として、グラミン銀行や企業の社会的貢献の資金CSRを活用するのが望ましい。
(4)復興にむけて〈復興される新しい街並の有り方〉
(三陸自動車道と鉄道路線の最大限の活用)
新しい市街地及び街並みの有り方を再検討しなければならない。今回の地震津波災害がより深刻だったのは、生活基盤である住宅地の喪失、生産インフラの破壊、そして避難行動の遅延による人命的損失が甚大だったことである。
これらは過去にあった地震、津波(明治29,昭和8年)の教訓から法律により、かつての被災地には家屋や住宅の建設は禁止されていたが、時間と共に形骸化され建築した建物が今回流出し、また、避難所にたどり着く前に大勢の犠牲者を出してしまった。
三陸地方のライフスタイル、生産形態として沿岸部をフル活用してきた経緯がある、そのため海岸地とは付則不離の状態で生活をしてきた。今後も三陸地方を復活するためには、海辺から離れて暮らすのは現実的でない。
以上、復興、復活にはこれらの諸条件を加味して計画立案しなければならない。
(新しいライフライン、インフラ導入)の必要性
従ってこれから復興される街並み、生産インフラはなるべく現地に復旧されることなく、新しい発想と新しい土地に再建されなければならない。
そのためのサンプルとして二つの例をあげ検証してみたい。
〈南三陸町ケース〉
(新しい市街区の選定)
例えば南三陸のケースとして、この地は所謂、典型的なリアス式海岸である。そのため、海岸線はほぼ溺谷状に山が海に迫っている、従って陸地の平野部が少なく、多くの住民は狭い平場に住宅、生産インフラ、農地と効率良く配置、展開して生活していた。しかし、この度の千年に一度と言われる大地震、大津波でその資産の多くを喪失した。そこで、これから再構築する市街地、住宅居住空間はこれまでの被災地に再構築するのではなく、これまでよりも標高のある丘陵地に再構築する必要がある。
その例として、南三陸町、歌津地区はこれから開通する予定の三陸自動車道の沿道にその市街地を展開するほうが将来的だ。ちょうど、今現在開通工事を目指している高速道路は現在の国道45号線と並行するよう沿岸部を北に向かい、気仙沼市、岩手県大船渡市、釜石市を目指して北上する。従ってこの「歌津・新ハイウェイタウン構想」は被災地全域、岩手県、青森県まで応用出来るモデルである。具体的にはまず、条件的に現在の歌津地区を南北に貫く高速道路は、標高も30メートル近くのやや高地を走るので、津波の危険性はない、それは今回の災害で実証済である。その形態としては、高速道路を挟んで西側には役場、学校などの行政機能を設置する。また、東側の海側には、水産加工場、農地、住宅街を段丘方式に造成し津波被害から避難しやすいように設計する。さらに三陸道はこれからほとんどの区間で無料化になるでETCも料金所も不用になり、どの地点からも出入り可能となるので、ちょうどサービスエリアの延長線上に街を造ると言う発想で市街化計画が出来る。さらにそれらに附随して、旅行、ホテル、温泉場やキャンピングカーの駐車場が有ると、災害時の避難所や仮設住宅の設置場所としての転用が容易となる。また、独自、エネルギーの確保して田束山腹に風力発電機を設置し夜の余剰電力を登米市の北上川から歌津ダムに揚水し、発電してスマートグリッドに役立てるべきである。
〈名取市・閖上ケース〉
名取市閖上の復興の場合も高速東部道路の沿線に構築する必要がある。旧閖上地区は今回の災害で、とても旧来の地に復旧、復興は無理と思われる。そこで、現在ある貞山掘り運河の景観は残し、その西側の旧市街地跡に高さ20メートル程の緩やかな「砂丘林」を築き、その上に道路を通し護岸道にして貞山掘と共に、観光ハイウェイとする。ここにも風力発電を設置し「地産地消電力」スマートグリッドを実現する。また、今後も閖上の港と水産加工場の機能は残しても、居住地は東部道路の西側に移すべきと思われる。
その一つの構想として、現在ある東部道路の名取川大橋に架かる橋梁に附随してサービスエリアを建設し、その後方に市街地、住宅地を造ることを提案する。また、漁船が海から川を上り橋の上のサービスエリア上の海鮮市場に水揚げして、常磐道を利用する観光客への「笹かま鉾」などの名産品、土産品の目玉商品を提供する場としする。現地は太平洋と仙台市街が見渡せる景観の良好な所なので、サービスエリアを設けると観光的には絶景なスポットにもなる。
以上、南三陸歌津地区と名取市閖上地区をモデルに街並み、その他の復興計画を提案しました。歌津地区のモデルは岩手、青森の沿岸部の多くに応用可能かと思われ、また、名取市閖上地区のモデルは亘理町、山元町、相馬市、常磐地方に応用可能か思われる。また、今回の津波で判明したのは高速三陸道、東部道路などの高架部分が津波の勢いを減衰させた点である。特に仙台平野は三陸道のルートが偶然にも「貞観の津波」の際の到達点にほぼ作られたので、その高架と土盛りの部分が内陸部の最後の防波堤になったと言える。これからの津波防災の目安としてこの高速道が基準と成りうる。ここでも高速道路の東側は農地や工場などの生産インフラを置く事が望ましい。また、先に上げた閖上の高さ20メートルの「砂丘林」モデルを仙台港から亘理までの貞山掘運河沿いに構築し、また今回被災した沿岸部の県道(塩釜〜亘理線)をかさ上げすればその生産インフラは、被災以前のレベル以上で活用することが出来る。
以上の発想を速みやかに実現するするには、土地の所有権の移動など、超法規的な買い上げ、多少の強制執行などの処置が必要となるので、事前の法的準備が必要である。いずれにしても地元住民への丁寧なコンセンサス作りは重要である。
(5)未来に向かって〈特論として原発科学事故対策研究部隊の創設〉
ここで取り上げるの問題は、この度の災害は三陸の地震津波と共に国民の不安を一層増幅させた福島原発の事故のことで、これは従来の自然災害を想定していた準備や装備では解決出来ないという、かつて経験したことのない無力感を日本中にもたらした。
その不安はこの次に想定される東海地震に伴う、浜岡原発の故障、暴走を連想させ、国民を一層の不安と絶望感の淵に追い込んだ。さらに失望感に拍車をかけたのが、当時者である電力会社のその責任感の無さと、問題解決能力の欠如だった。これは十数年前のオウム真理教事件を思わせる、暴走する科学に対する恐怖と嫌悪感を呼び起こした。そこで、これらを恒常的に解決する能力が国家に備わっていなければならない。この問題は(3)の理念〈災害庁の創設〉で上げた中で改めて特論として、原発の事故対策研究部隊の創設を提案するものである。
(6)十年後、五十年後、百年後三陸地方のビジョン〈海洋ニューディール政策の構想〉
新しい産業インフラの構築としての海洋ニューディール政策の発足。
復興後十年までには被災以前のライフスタイルを回復しなければならないが、多くの犠牲者と高齢化、少子化で復興の進捗状況は停滞期に入ると思われる。そこで従来の三陸地方の特徴的生産形態、典型的生産形態であり、また、ブランドでもある豊かな漁業資源と旺盛な水産加工業を中心に新たに三陸地方を水産加工のコンビナートにするべきである。
さらに次の10年から20年の発展を目指すために「海洋ニューディール政策」の発祥の地になる必要がある。
これは水産資源、海洋資源、海底資源など日本はいまや排他的経済水域の広さにおいては世界四位の地位にあり資源大国である。この「海洋ニューディール政策」はこれから50〜100年後には必ず日本が進むべき必然の進路であり、これこそが次の国際的競走社会で生き延びるための「奥の手」とも言える。その先遣的研究所などのインフラをこの度の被災地、気仙沼市、南三陸町に設置し開始する必要がある。なぜなら、海洋資源の開発にはまだ各国の軋轢等もあるで、それをこの三陸の被災地から「復興のために」と発信すれば多くの理解を得ることが出来る。
以上、これはまた、新たな経済再生政策なので具体的内容は紙数の関係で割愛します。〈別途、改めて〉です。
むすびとして
以上、これまで(1)の現状〈発想の転換必要性〉(2)の改善点〈対処法としての新たな装備の常設〉(3)復興の理念〈震災初年から三年後の有り方〉などで今回の震災からフィードバックした命題に基づいてこれまでの防災対策の不備、不充分な点を論じてきました。また、(4)の復興に向かって〈新しい街並の有り方〉(5)未来に向かって〈特論として原発科学事故研究部隊の創設〉(6)の十年後〜百年後の三陸地方のビジョン〈海洋ニューディール政策の発足〉で新しい技術革新(イノベーション)による復興の設備投資が日本の経済発展にとっていかに寄与するかを述べてきました。また、今回の震災は大変なダメージでしたが、これを機会に新たなこの国の再構築の先行モデルとして役立てるものと確信しています。
さらに付け加えて、これらの設備や再構築の方策が次の東海、東南海地震や地球温暖化による海浸防護・護岸対策にも役立つものです。以上、最後まで読了有難う御座いました。
経歴
東北大院修了 旧郵政事務官・作家・映画プロデューサー・経済学・バイオ技術研究者
著書:小説 『風に吹かれて』『JFK ダブルスティツ』『田中角栄・野武士の時代』など 57才
2011年4月20日☆安否の確認に気仙沼へ
3月11日から1月たちますが気仙沼ではまだ火災がくすぶってるところもありと連日新聞に載ります。
特に鹿折・浪板海岸の病院の被害がひどく、看護師さんたちの救出作業が、困難を極めたと新聞記事にのる。患者さんをベッドごと唐桑方面に向う県道の坂を押したとある。あの細い体でどうやって凌いだろうか、気なるが探しに行くべきかを迷う。さいわい職員の被害は載っていないが生死は不明だ。どうしたものか悩んでいました
2011年3月21日☆ 震災特別編を書くことにしました
この地震に逢い震災特別編をまとめることにしました。
2011年3月17日☆動きだす
東京にいるEさんから、「現地の様子を見て来てほしい」と強い要望があり、ついに歌津に行くことになった。東北道は通行止めで国道4号を古川に向かい佐沼経由で、入谷を山越えして歌津払川に出て、伊里前に着く。
その時の詠歌:遠つ親 拓きし 馬場の海しょうで 更地に戻る 時に巡りぬ 歌津 海竜
2011年3月11日☆突然の地震と鳴動
丁度、松竹に提出する映画の企画書の制作中でした。田中角栄の「野武士の時代」を映像するためです。
2011年2月日☆松竹に行く
松竹で阿部監督、山本プロディユーサー、電通とで「野武士の時代」の映画化を打ち合わせてくる。