2015年 ゴッドファーザー逍遥記
2015年12月24日☆メリーさんのクリスマス
ヒツジ歳の本年もついにメリーさんのクリスマスまで来てしまいました。
昨年のクリスマスもスケートの画でしたが、今年の話題もスケートからです。
仙台は羽生選手や荒川静香さんが育った街で、スケートが盛んな土地のようです。そういえば日本のスケートの発祥の地が仙台城のお堀「五色沼」だそうです。たしか明治時代に外国人の教師か宣教師かが伝えて、旧制の二高生が広めたとかの話です。
(三の丸跡・博物館入口に説明パネル有り)
私達もよく八幡スケートセンターや勝山ホールに行きました。
初心者でリンクの内周の縁をヨチヨチとつたい歩きをしている人を「手摺磨き」(テスリミガキ)と言うのですが、デートでわざと滑れない彼女を誘い、リンクの中央に連れ出すと、転びそうになり「キャー」とかいって、しがみついてくれると「急に親しさが増すんだ」と先輩たちが言ってました(笑)
わたしにスケートを勧めてくれたのはヒデでした。名小五年の時にクラス替えがあり、初めて一緒になりました。それまで隣のクラスで一番背が高い人、こちらのクラスではわたしでしたので、その存在は知っていました。間もなくすると「仲向」のキエコ姉さんの不幸があり、放課後も葬儀等で毎日会う事になり急に親しくなりました。
そんな折、わたしが野球を勧めると彼はスケートを勧めてくれました。それで清一君達も一緒に滑るとこちらは初心者ですが、彼等は小1からやってるとかで、スピンもジャンプも出来るのです。わたしも良く練習をして中三の頃には一回転が出来るようになりました。
結局、高校入試もなんのそので冬休みはスケート三昧でした。そして最後に彼と一緒に滑ったのが、泊のバクロ屋の後ろの「サンダの沼」でした。天然のリンクとしては広くて氷も厚く最上のロケーションでした。近くにはEさんが住んでいるので緊張しながらも、今頃は受験勉強で「ウン ウン」唸ってるのかなぁと思っていました。
そして当時、地元では高校生になってスケートが出来る雰囲気は無く実質中三の冬休みで終わりとなりました。
2015年11月22日☆北の湖さんの訃報とケネディ暗殺のこと
本日22日はケネディ大統領暗殺の日です。まもなく55周年で、ちょうどウォーレン報告書の資料も2039年の開示から前倒しで2017年に行われます。
事件に対する興味もより一層高まるものと思われます。しかし、今回それらの準備をしていると突然、日本相撲協会の理事長「北の湖親方」の訃報が有りましたので、ファンの一人・タメのひとりとして記して置きたいと思います。
「北の湖さん」社畜と言われて「エサの事、繁殖の事、自分の事しか頭にない」と言われた「なんちゃって世代」に代わり協会が大変な時期に、二度も理事長に駆り出され、二度の召集令状を受けた時のような思いでしたね。お疲れさまでした。合掌
2015年10月29日☆君香・デオドラントのこと
10月も押し迫ってきましたが、今日の話題は「君香・デオドラント」のことです。
数年前、東北大学やご協力各位により、ワキガ除臭剤「君香」を発売することが出来るようになりました。
そんな中、本日「君香」の試供品第一号を試して下さった方と、久しぶりに会う事が出来まして、その後の経過を伺いましたところ「君香」でワキガに対応してから早六年「いまは完全に治り、全然臭わくなった」と聞きとても嬉しく、かつ研究者冥利につきる日でした。
もとより、ワキガはつらいもので、自分も経験者なのですが、その鬱陶しさとやるせ無さは始末に負えませんでした。とくに思春期には困ったものでした。私たちの若い頃はちょうどエイトフォーが登場して来て、余計に「気にしなければならないのか?」と意識する事になりました。
本来、ワキガは病気だとは思いませんが、むしろ精神的苦痛のほうが大きいです。私も以前のブログに書きましたが、中三の夏休み前にうっかりと、友人の柔道着を着用して伝染ってしまい「取り返しのつかないことをしたなぁ」と悔みました。
また、そこから回復する方法を模索するのですが、その結果、ある植物から取れるポリフェノールが有効と発見する訳です、真に人生とは分からないものです。決して慰めで言っているのでは有りませんが、何事も今すぐ解決せずとも、粘り強く諦めずトライすれば活路が見いだせる事を学びました。
まさに聖書の言うところの「求めよ、さらば与えられん」です。この時、本当に欲しいものであれば「強く求めよ」だそうです。つまり手に入れるためには「努力せよ」との意味もあるようです。そして、その願いや努力が「神を信じ、さらに正しいもの」であるならば、多くの場合は希望は叶うようです。
いま、私達は一度除臭しても、再度「臭うのではないか?」と不安な方のためにそのフォロー用として、石鹸を作っています。成分は君香と同じポリフェノール入りです。ただし、経験上石鹸でワキガが消す事は、あまり期待出来ないので、あくまで一旦「君香」で除臭が出来た方への、アフターケア用とお考えください。
また、「君香」の容量が少ないために一度除臭しても、再度不安になる方もいらっしいます。製品は使用開始後、約三日目に変化が感じられ、さらにその後四~五日間使えるように分量されています。なるべく一週間~十日間で使い切るようにしてます。基本的には長く使用してもお肌には無害ですが、体質には個人差がありますので、無理なくご使用頂くためです。
あと、どうしても理解して頂いきたいのは、一度除臭しても(古いシャツや上着)を再度着用すると、以前のワキガの臭いが染み付ているので、再度、臭い出し「再発か?」と不安になる事があります。特に下着を身に付けて体温が上がり、さらに衣服の温度も上がりだすと微かに臭い出します。理由は以下のように考えています。
◎細菌の殺菌に関しましては「菌は衣服を洗濯し、完全に乾燥させると、死滅する」これは東北大学からの科学的根拠に基づいた見解です。そのため再度、臭い出すのは細菌由来ではなく、例えば、香水を付けると当分の間、着衣に香りが付いて取れない。この「残り香」と同じ現象かと思われます。
当時の私は、洗っても汗が半乾きの以前の下着を安易に付けると、まだ菌は残っている可能生も有るので、すべてのシャツと、若干の臭いの残る上着を更新して治しました。しかし、それが不経済であるならば、いま、衣服用に「消臭も殺菌も可能」な洗剤が出始めたので、それを試してみる事も一考かと思われます。
私達もいずれそのような洗剤をと思考していますが、とりあえず、今度出るアフターフォロー用の「コスモス君香石鹸」で衣服の脇の下をつまみ洗いし、ヘヤードライヤーで強勢的に乾燥させてみるのは如何でしょうか。
追伸として
一度良くなったが、その後が心配という方は、製品に同封のアンケート用ハガキにてご連絡ください。
「君香」を約二割引きと、これから出る「コスモス君香石鹸」で対応させて頂きます。
蛇足ですが、もし使用感に変化が感じられないときは、少ないながらもまれにもう一種類の菌の可能性もあるそうなので、予めご了承ください。そちらも今、鋭意研究中ですので、こちらも同封のハガキにてご報告頂くと大変助かります。よろしくお願いします。
2015年10月22日☆今朝の河北春秋から野球のこと
今朝の河北春秋に野球のことが面白く取り上げられてましたので、それに触発されて書いてみたいと思います。文末の怒りに、つい受けてしまいました。
また今日はドラフト会議の日でもあります。
わたしも何とかして育英の平沢遊撃手が楽天に来てくれないかと願うファンのひとりです。野球をやってて一番面白いのはピッチャーとキャッチャーです。その次が遊撃・ショートです。平沢選手は走攻守に優れバッテングも良くおまけに野球センスが良ので、久ぶりにスター性を感じます。
ちょうどチームも二遊間が補強・更新の時期とかで加入してくれればグッドタイミング、さらにファンも増えるはずです。ただ、素人のわたしから見て、バッターボックスでの脚のスタンスがやや広くて、速い変化球に苦労しないか?という点です。たぶん、本人も知っていると思うので余計なことかも知れません。
ええ、それでもって今朝の河北さんのご立腹はドラフトでは無く、巨人の八百長のことです。たしかに69年頃に「黒い霧事件」とが有りましたが、その頃の私はもう野球にはほとんど興味がなく「野球で八百長なんて可能か?」ぐらいの感覚しか有りませんでした。プロレスじゃないんだから(笑)
ただ、かつて、私が野球を教えたヒデが甲子園に行けそうなくらい頑張っていて、県大会で三回戦を超え準々決勝まで毎年行ったりするので、多少期待したりしました。そんな彼と「八百長は本当に出来るか?」なんて話をしたことも有りました。なぜなら、野球というのはどんなに頑張っても三割しか確実性がないのです。
つまり、いっかな監督がサインを出しても、選手は確実にはその技を履行出来ません。せいぜい三回に一回うまく行けば御の字で、そんな優秀な選手は滅多にいません。また、そんな強豪チームが攻撃を始めたら、永遠にスリーアウトチェンヂにならず、コールドゲームでしか試合は決着せず終了しません。
そんな状態で一体どうやって試合をコントロールするか?「不可能やろ」もしそれが出来るなら反対に弱小チームでも確実に優勝出来るはずだと思っておりました。
しかし、後にアメリカのユダヤ系組織人の大物「アーノルド・ロスタイン」(ラッキー・ルチアーノの師匠)がワールドシリーズで八百長を組んで大儲けしたと知り、すこし考えるようになりました。そして分かった事は必ず勝つ事は不可能でも、必ず負ける事は不可能では無いという事です。つまり、わざとエラーをする事です。
このワールドシリーズときはケネディ大統領のパパも、ちゃっかり儲けてたはずです。もっとも後にシンジケート・マフィアが全米の競馬場の八百長を取り仕切っていたので、野球賭博も難なくコントロールしていたのでしょう。
それで思い出し残念なのが、ワールドシリーズで優勝して、仙台に来て巨人とゲームをしたビッグレッドマシン・シンシナティレッズのピート・ローズ選手です。彼は未だに米球界から追放されたままです。昨年かに復帰の噂も有りましたが、立ち消えのようです。
野球の想ひ出は数々有りますが、そのひとつがヒデとのことです。小学の時あまり野球に関心のない彼を誘ったのは、身長が高く一塁手に向いていたからです。ポジションを決める時「ヒデは背が高いから一塁手な」てな感じでした。その内にチャッチボールをしていると球筋がいいので、私がミットを構え投球のコツを伝授しました。
そうしましたら、私達の野球好きを見ていた漁脇理事で、うちの親戚(仲向)でさらにヒデの叔父、三浦充一さんがユニホーム一式全員分を小学校に寄贈してくれました。これを着てその後伝統となった、伊里前小学校との対抗戦の第一回目が始まった訳です。
この時わたしの「背番号事件」(笑)があり、その春、中学にあがり、この事で伊藤さんと少しもめてやがて親しくなるのでした。それはY子さんが絡む話で彼の誤解でしたが、私はあえて訂正しませんでした。それよりもその事件を知っている事のほうが驚きでした。その後「ひとの縁とは計り知れないものだなぁ」と感嘆しました。
そのヒデにピッチング練習の時、私が知ったかぶりをして、カーブの握り方と腕の振りを教えたのですが、小学時代はあまり変化せず「今のは曲がらないカーブだな」などと言ってキャッチボールで遊んでいました。
そして歌中に行くと毎年五月に「校内オリンピック」といって球技大会があるのです。
大会開会式の歌が♪゜「若き力と感激に*:.。燃えよ若人. .。胸を張れ.:♪゜歓喜あふれる・*ユニホーム:.。. .。♪揚がる凱歌に虹が立つ*情け身にしむ・熱こそ命♪゜競え青春*:.。清きもの*・♪」♪と、かつての宮城国体のテーマソングだそうです。これを歌い盛り上がり、全校各クラスが四区に分かれて対抗戦をする訳です。
三日間にわたり屋体や校庭いっぱいに生徒が試合を展開して、それは華やかで壮観なものでした。そんななか私が4ブロックの野球に出たら、ヒデも二学級で2ブロックの野球に出てきました。それも野球部に入ったので一年生ながらピッチャーです。
その時わたしは、まぁ「小学いらいのヒデだ」と半分鼻歌気分でダッターボックスに立つと、初球はまぁまぁの速さで外角低めの直球でストライクでした。そして1球目を見送り次は打つぞ構えると、なんといきなりカーブを投げて来て、わたしは「おッ、ぶつける気かぁ」と思わずのけぞりました。さらに、「エ エーッ いつの間にカーブが曲がるようになったんだー」と思っていると、3球目もカーブで、バットを振りましたが打たりませんでした。
まぁ、彼とは兄弟同然の仲ですが、わたしの思わぬ不覚で、今でも忘れられない想ひ出になってます(笑)
あとは、三年生になると給食後に毎日した十学級と十二学級のソフトボールの試合です。食事が済むとどちらからともなくグローブとバットを持って、雨の日以外は必ず毎日でしたね。二階の窓からは女子が観ているので良いところを見せたくて頑張りました。この想ひ出を十学級の山内孝樹さんに確認すると「いゃ~毎日ゴリに動員されて大変だったよ」とぼやかれました(笑)です。
と、青春の想ひ出は尽きませんが、今朝の河北では野球賭博のことを以下のように怒っていました。
『きょうはドラフト会議が行われる。青春の日々を白球にかけた若者たちを、清らかな舞台で迎えてあげたかった。たまったうみを出し切るしかない。そうしないと熱血の父親が出てきて、ちゃぶ台をテレビごとひっくり返す』と父、星一徹の出現を予言して警告していました。受けました。同感です。
2015年9月26日☆歌津ジオパークのこと
三日前でしたが、23日の河北新報に歌津の2億5千万年前の地層から「囊頭類の化石」と載っていました。国内初で、またまた学術上や観光上で「歌津が輝く」発見が有りました。
私の「脇香菌抗生物質類の発見」以来の快挙で神に感謝です。
そもそも地層に興味を持ったのは、あの開口のお陰でした。真冬も真夏も夜中の3時半に起こされ、あわびやワカメを獲りに行くのです。小学三年から兄が獲師で、私が櫂押しで舵取りです。
三陸でも最も波の荒い馬場の海です。それでも凪の時は眠気を催すほどになりました。そんな時は櫂を押しながら、陸側の黒く峨峨とそびえるリアス式海岸の風景を海上から眺め、あの地層の成り立ちの事を考えていました。
リアス式海岸の事は小学の教科書に載ってますので、概要は知っていました。それを直に毎日見ている訳です。そんななか、中学1年の科学の授業で大森先生が「あの黒く固い粘板岩は地球上でとても古くて、世界の学者も注目で学術上重要なのだ」と教えてくれました。
今回、その歌中の教室の窓越しに私達が朝夕眺めた伊里前湾から「囊頭類」の化石が発見されました。
「囊頭類」というのは頭が袋状になっている小さな虫で、現代でいうミジンコを大きくしたような生物です。オキアミに近い類なのかどうか・・・?ですが、きっと当時の歌津魚竜などの食物連鎖で餌となり、多様で豊かな三陸の海の生態系を構成していたものと思われます。これからも益々新種の発見なども続くはずです。
◎ここで「小結論」として、当時の歌津はパンゲア中でユーラシア大陸の一部でしたが、中緯度からあまり遠く外れなったので、温暖な気候が長期間にわたって続いた事により、多様な古生物が繁殖する事が出来て、後に化石となり残りました。
これが私の長い間の研究から得た結論です。(必ず試験に出ます)(笑)
(この説は私のオリジナルです。多くの方に支持されることを願っております)
かさねてのハイライトは「数億年前に地球上の大陸が四方八方に移動した」という壮大なスケールの物語の名残が、あの歌津の地層郡だった事です。現地に立って詳しく観察すると「大陸創生過程の雄大な太古のドラマ」に引き込まれます。
「古えが有って今が有る」きっと現代の地方創生の物語につながるものと思います。
テーマは書き始めると延々とエンドレスになってしまうので、地層や化石、恐竜などが好きで興味のある方は、ぜひ、歌津をフィールドワークに訪れて下さい。今から始めてもここは古生物学のメッカでありフロンテァなので、将来的に大学者になれる事を請負います(笑)
やはり歌津は「日はまた昇る・ネバーギブアップ」のフロンティア スピリッツ「開拓者魂」が似合う所だとつくずく思います。
いずれ、ここはジオパークの中心地なので、世界中から研究者が集える施設なども整えられたらと思います。
それには化石研究家や地層女子「地女子」なども現れてくれると嬉しい次第です。長くなりますので、ひとまず一旦ここで・了とさせて頂きます。
ネットのカリスマDon・Vito・Fumioneがお送りしました。 ナョナルジオグラフィックス
2015年9月14日☆阿部監督の会とジャズフェスと
昨日は仙台ジャズフェスの二日目でこれまでにない、大いなるにぎわいでした。今回がついに25回目で四半世紀の開催となり、仙台の市民パワーに改て敬意を持ちました。
ここであるジョークを思い出したのですが・・・
「仙台に過ぎたるものが三っ有って、そのひとつが伊達政宗で、その次が東北大学」だそうです。それで三っ目が戦前は「世界最強の第二師団」か、何かは忘れましたが、その内に「ジャズフェス」が入るかも知れません(笑)。しかし私にはむしろ、いずれも「世界に冠たるもの」に思えます。
聖書では「いや、四っ有って・・・」と続くのですが、仙台の場合その四っ目が「楽天」かもしれません。
そうしましたら昨夜は恒例の阿部監督の集いもありました。そんな中、団長で司会の津田さんが、すぐ近くで行われている楽天の試合が気になるようで、幾度も勝敗を確認してました。やがて、誰が「負けたようだ」と告げると、津田さん曰く「ついに楽天も西田佐知子か」とガッカリしているので、さらに誰かが「その心は」と尋ねると「再会」=「サイカイ」かと、なんともまぁ「カミをも恐れぬ」シャレを飛ばしていました(笑)
ちなみに「えっ、再会」は「松尾和子では?」という定番の突っ込みも入りましたので・・・参考まで〔笑)
その阿部監督が今回、松竹が創立120周年だそうで、会社の創生時期の事や、ネットフリックスの話を熱く語ってくれました。みな興味の尽きないテーマなので、熱心にスクリーンに吸い込まれ、かつまた、するどく、今後のコンテンツに期待する質問を監督に寄せていました。
私は監督と今後の松竹とネットフリックスやクールジャパンの対応等について鋭意確認して来ました。
ネットのカリスマ「世界の三浦か三浦の世界?か」Don・Fumione曰く「コンテンツ製作文化」は永遠です。
2015年8月19日☆被災鉄道の復旧補助拡充のこと
今朝の河北新報に被災鉄道の復旧補助拡充「黒字会社でも支援可」とありました。これは、大規模災害で被害を受けたローカル線への復旧補助制度を拡充する鉄道軌道整備法改正案をまとめたものだそうです。
赤字の鉄道会社に限っている支援を黒字会社にも拡げる制度に改正するものだそうです。感謝です。改正法案は東日本大震災の教訓を踏まえ、南海トラフ巨大地震などに備えるのが目的と、関係与党が法案を提出してくれたようです。重ねてマスコミ及び関係政党に感謝申しあげます。
きっと、志津川の廻館で気仙沼線そばの自宅を流された、怒りん坊の、故、大森先生も「二三男、良くやった」と褒めてくれて、そしてまた仲直りが出来そうです。また、議員として国会に出向いて下さいました、山内孝樹さん、先輩の及川幸子議員様にも御礼を申し上げます。そして関係各位に感謝です。
「信じる者は救われる」のようです。
2015年8月6日☆恩師の訃報から
昨夜8月5日は恒例ですが、仙台七夕前夜祭の花火大会でした。また恩師、大森先生の命日でもありました。
そして本日6日の新聞で、高校教科書に「公共・22年度 近現代史も必修」と有りました。するとその知らせを待っていたかのように、我が師「阿川弘之」先生の訃報が載っていました。きっと阿川先生も学校で日本の「近現代史」を授業で教えることには「我が意を得たり」との思いでしょう。
これまで戦後70年を迎えてなお、日本は歴史認識の問題で、立ち往生していました。しかし、ついに戦後のタブーを破る事が出来ました。この「エポックメーキング」・時代を変える事が出来たのは師の示唆によるものでした。そしてこの成果を得たことは作家冥利に尽きます。まさに「神に感謝」です。
大森先生の命日は昨夜、同級生の一人ともに悼んだばかりでした。私は自分の師のことを「和菓子の恩」などと勘違いするほどの不肖の師弟なので、自分の拙い恩師への思いもどこまで伝わってたか・・・と言うところでした。
しかし自分がここまで来たのも両恩師の存在が大きかったのです。
大森先生との出会いは私達が中学に入学した年に、先生も志津川中学から転任してきて、初めて担当したクラスが我が一年四組、四学級でした。小柄ながら柔道三段、志津川中学では相当鳴らしたらしく、その武勇伝を滔々と並べましたが、その話もまんざら誇張でもなさそうで、私はむしろ好感を持ちました。
そんな先生とは、常にどこからでも見られているようで、突然「なんだ二三男」と怒り出すので、ぶつかり合って反発したかと思うと、話せば分かるので猛反撃するといつの間にか和解したりとの繰り返しで、いつも不安定で危なっかしい間柄でした。ただ、お互い真剣で魂ごとぶつかってくるのは分かっていました。
科学的な物ごとの考え方の基本を伝授されたり、少なからぬ感動を受けたりしました。しかし、時に尊敬したり、ただ煙たかったり、懐かしがったりとの複雑に揺れ動く教え子でもありました。そして今もって自分のなかで評価の定まらない人、それが大森先生でした。もしかして「棺を覆うて定まる」の人だったのかも知れません。
しかし、その師弟関係は後ほど書くことにして、今回は阿川先生のことです。
阿川先生の存在を知ったのは、その次の年二年一組、五学級になってからです。担任は剣道三段でのちに我が畏友、伊藤武蔵と巌流島の決闘をした、佐々木朗先生でした「それでは民主主義のルールに反するではないかぁ!」また、何か事が起きると「軽くパンチかぁ」が口癖の体育の先生でした。(巌流島の戦いはいつか書きます)(笑)
余談ながら、この次の三年生の担任の先生のメンツに、十一学級の空手三段の小池先生が加わるとは・・・
一体、わたし達はどんなジェネレーショーンだったのでしょうか(笑)
その二年生の夏休み明け9月頃に、体育祭があり盛んに応援練習をさせらる訳ですが、我が1ブロックのリーダーが九学級の節郎氏でした。そして、その時テレビで「雲の墓標」のドラマが始まり、「同期の桜」を松方弘樹さんが歌っていました。それを応援歌に加えて、みんなで何度も肩を組んで歌いました。
歌は結構ヒットして、気仙沼に出船の見送りなどに行くと、あちこちの船のブリッチから盛んに景気良く流れていました。この時、阿川先生の原作のドラマ「雲の墓標」に初めて触れたわけです。
すると翌年、三年生の夏休み前の期末試験の後の映画観賞で、鶴田浩二、高倉健、松方弘樹、佐久間良子出演の阿川弘之原作「あゝ同期の桜」を屋体で観るわけです。私はこの3日後かの夏休みを前にした7月25日かに「明日から柔道が出来なくなるので思い切り練習しょう」として、T君の柔道着を着て「ワキガ」が伝染りました。
大変な記念日です。(笑)
この日、「さぁー暴れられるのも夏休み前は今日が最後だぁ」と張り切って部室に行くと、どういう訳か私の道着がないのです。しょうがなく見渡すと3日位前に着て汗だくのT君の道着が干して有りました。そして脇の下は乾かずに青色のカビが生え、ワキガの臭いがしてました。
さすがに少し躊躇しましたが「まっ、いっか」とそれを着て最後の大練習しました。そしたら3日後に脇の下から異臭がしてついに「脇香デビュー」となったわけです(笑)しかし、そこからが大変になるのですが、でも当時はワキガなんて誰も気にしませんでした。
こうして怒涛の歌中生活も後半、体育祭も終わり秋めいた季節がやって来ました。そんなある日ひとつ下のJ子さんが、九学級の隣の図書室に入って行くのが目にとまりました。そして改めて「読書かぁ」と思い、九学級にはEさんがいて、その前を通るのは緊張ものでしたが、J子さんの跡に続いて、この時入学し三年目で、初めて図書室に入りました。
実は小学生までの私は結構読書をしていて、勉強こそした事がないのですが、多種多様の本を読んでいたので、博覧強記の博士と呼ばれていました、しかし、中学に上がる時ある人から「歌中という所はそんなところではおまへんでェ」と言われほぼ読書や調査は諦めていました。(ただ二年後の歌津魚竜の発見に繋がる、粘板岩・玄昌石の地質調査や独自の研究は続けていました)
しかし、それでは「何んぼなんでもひどいな」と思い三冊だけ読む事にしました。そのとき借りた中の1冊が阿川先生の「雲の墓標」でした。あとは堀越二郎氏の「零戦物語」とNASAの「ロケット開発の話」でした。
その「雲の墓標」の168ページかの以下の文章にずっと囚われ、作家になろうと思いました。
「いまこうして米国と戦争しているが、実は裏ではつながっていて、飛行機のプロペラだって、ハミルトン製の物を使っているんだ」
と言う、これから特攻で出撃する海軍予備学生の会話の部分です。この文章を目にした私はここで一度読むのを止め考え込みました。当時「鬼畜米英」とか煽って「特攻」まで繰り出している時に本当にそんな事が有ったのか?と言う大きな疑問です。物語は小説仕立てとは言え、ここが虚構ではこの作品の価値はゼロなのです。
私はこの事を満更、創作とも思えず「物ごとは表面的な現象を鵜呑みにするのは拙なく、その裏側を知る事が重要だな」と思い「もしかしてあの戦争は騙されていたのでないか」と言う思いが作家を志す動機になりました。
こうして生涯の阿川作品の読者となり「山本五十六」「米内光政」「井上成美」と読み進みながら、それと同時に独自調査して、その結果「自らの出世欲のため」国運を誤らせた「暗く、さもしい者達」がいて、その心情を知る事になるのでした。そしてまたそのために多くの国民が犠牲となった事や、叔父の戦死が悔やまれました。
あの、初版昭和40年発行で分厚く、テニヲハ以外は全部漢字、それも旧漢字という「山本五十六」を読んだのが高校の図書館でした。私の高校生活で教科書センターと並んでお気に入りの場所・空間でした。(教科書センターは草野先生のヤキモチで出入り禁止となりました)(草野先生とあと二人だけが知ってるエピソード)(笑)
また貸出カードを見ると私の前に借りたのが偶然、草野先生でした「やはり関心があるんだな」と思いました。
ただ、作品はほとんど漢文調それも旧字体で更に「てにをは」以外はほぼ全部漢字で、おまけに今のようにルビも振ってないので、一度読んでも7割くらいしか理解出来ず、二度目で読了という感じでした。
当時、図書館は校舎とは別棟で学食の横の通路を行くので、うどんダシの良い香りがして食べ盛りの身にこたえました。しかし建物は高原のチャペル風で周りには紅葉や楓が植えられて、窓辺に立つと外には桜や噴水も見えて中々情緒のある空間でした。
中に入ると美人の司書さんがいて、それを目当てにかよう訳ですが、また、冷房は有りませんが冬は自分らの教室のストーブより遥かに暖かいので、教室に戻らず過ごした事も何度かありました、しかし、別に叱られることもなく、いい思い出となりました。
阿川先生の作品を読んだ事がある方はご存知ですが、先生の文章はほんど漢文です。あるとき先生のエッセイを読んでいたら、まさに漢字だらけなので、読者もどうなんだろう、と思い試みに数えてみるとエッセイでも60文字中、そのうち平仮名はテニヲハだけで、わずか10文字しか有りませんでした(笑)
その影響で自分の初期の頃の文体も漢字多用で職場で報告文書を漢字だけで書き提出すると「よめね~よぅ」と言われ改める事にしました(笑) これが阿川先生から受けた「和菓子の恩」のひとつでした。
ところで弟子は師に似ると言われるそうですが、家人曰く「短腹のところ」「ジェントルマンなところ」「ガラの悪いところ」が似ているそうです。阿川先生の文壇でのあだ名が「ボッ」と火が着き、すぐに熱くなるので「瞬間湯沸かし器」で、大森先生も「大短腹」の怒りん坊です。
しかし わたしの短腹は先生方の「遥か彼方は相馬のお空」で足元にも及ばず、むしろ日本でも屈指のジェントルマンで、そして、決してガラも悪く有りません。
で、わたしよりガラが悪いのは大森先生でしたが、しかし、多分、まぁ、階上中の校長もなさったの方なので「お前には言われたくねぇ」と、また例の如く目を三角にして怒るのでしょう(笑) とても不思議な両師との出会いでした。いつかまた書きます。
ちなみに英語の草野先生も柔道家で短腹でした。三人とも一刻者でしたが、先生も鼎の校長になり、さらにリアス・アーク美術館の館長に招かれた後、今年の春が最期と聞きました。合掌
2015年7月8日☆7月7日の誕生日のことから
五月に伊藤さんや京子さん・マゴの誕生日を寿ぎましたら、今月は「魂の恋人」や「運命の人」華の歌中の主役こと「及川さん」そして「兄」「電通の帝王」と今月は目白ジロジロ押しなので、公平を期しまして寿ぎを申し上げたいと思います。
まず、7月7日が、わが華の歌中の主役・舟木一夫こと及川さんと某市H中学の美人スターTさんが、奇しくも同じTさん繋がりで同年同月同日の誕生日でした。「おめでとう御座います」
お二人ともほんとに大人物でそれは大変なものです。どちらも私の青春に付き合って下さり、いつ思い出しても
尊敬の念と感謝の気持ちしかありません。
ええ、それでもって、まぁ、聞いて下さい。
『君み待つと わが恋をれば わが屋戸の すだれ動かし 秋風ぞ吹く』額田の女王
歌の心は「あなたが私のことを想うと そっと風がふき カーテンが揺れる」いう大意です
高三の夏 休み前のことでした。ある日伊藤さんと及川さんが我が家に遊びに来てくれました。そして二階の自室で談笑をしていると、フイに及川さんが立ち上がり、出窓 のところの風鈴に興味をしめしました。そして「フミこれ何」と訊くので、私が「え~ま~その~」と言いよどんでいると「それに7月7日はおれの誕生日だしな」と彼が言うではありませんか。
「ええっ、そうだったけか」と驚き、そして隠しだて出来なくなり「じつは俺の彼女の誕生日なんだよ」と白状してしまいました。実はその風鈴の舌の短冊に彼女の名前と「7月7日誕生日おめでとう」と書いていたのです。
そして風が吹いてチリ~ンと鳴ったら、上の額田の女王の和歌のように、Tさんの思いが来た事にして風流にひたっていました。それを及川さんが偶然見つけて「へ~」となったのです。にわかには信じ難い話とは思いますが本当の話です。
そして18日が「魂の人」の誕生日なのです。「おめどう御座います」恙無くお過ごすの事と存じます。お孫さんも東大に行けそうとかで、良かったですね。私とだったら大変たったでしょうから、正解のようです。
お互いに見初めあったのは、入学して間もなくでしたね。きっかけは今でこそ売れっ子になった富江が原因でしたね(笑)
2015年6月28日☆クラウドファンディングのこと
昨年の暮れあたりからREADYFORやMaKuaKeなどから勧められていたクラウドファンディングを試みることになりました。
テーマは「復興と地方創生」から始めます。さらに引き続き「クールジャパン」のために「コンテンツ製作」のためのファンドも試してみたいと思います。
お返しはいまのところ、私の著書やアマゾンのギフト券やオーニットのオゾン消臭機です。また、次のコンテンツ関係の募集の際は、さらに「贈って喜ばれる物」として、これにお米や三陸のアワビなどの海山物を加えることを計画しています。
復興と地方創生・クールジャパンの推進に少しでもサポート頂くと今後の励みになります。
いくいくはお買い物ポイントや皆様がCO2削減活動で得た資金、さらには企業のCSRが「研究費や地方創生、または映像コンテンツ製作」に役立ちましたら、サポターの方にも多くのリターンを生むようなシステムにしたいです。
研究・復興・地方創生・クールジャパン サポター募集 どうかよろしくお願いします
2015年5月26日☆復興・創生アプリのこと
復興と地方創生のロゴマークが出来ましたのでお知らせ致します。
以前から歌津魚竜をシンボルマークにロゴを作ろうと計画しておりました。しかし、魚竜館にあった想像図なども参考にしたのですが、どうも私のイメージとは大部離れていたので留保していました。
するとこの度、英国の大学が私の構想とぴったりの絵を描いてくれたので、それをモチーフにコスモス企画「復興・地方創生・三陸諸関連」のロゴマークに取り入れ完成させました。
さらにこれからもこの絵を参考に色んなバージョンを作りたいと思います。また、デフォルメなどの図柄を公募するかも知れません。そのさいは奮ってご応募ください。
ウッキペディア等にも歌津魚竜館の想像図がそのまま載っていますが、もとより化石を元にしていますので、今の所どれが正解とは誰もジャッジ出来ません。長いあいだには多く普及した方が定着すると思いますが、このモデルが広く世間に受け入られる事を期待します。
しかし、先行の図柄を否定するものでは有りません。また、新たなモデルが登場するかも知れませんので、どれが実物と相似しているか、学術的考査にでも発展し話題になれば、当時、発掘に立ち会った者のひとりとして、とても嬉しく思います。
(歌中話題)として、今日は私と千葉京子さんの誕生日で毎年の約束どうり五月晴れです。明日は伊藤さんとマゴの誕生日でやはり約束どうり晴れのようです。おめでとう御座います。ふみ
2015年4月23日☆追悼 加瀬邦彦さんのこと
私達の青春をリードし続けてくれた加瀬邦彦さんが一昨日20日に亡くなっていたそうです。
まさかの急な話で、ただ、ただ、残念なだけで、このまま、そうっとしておこうと思っていましたが「何か書いて下さい」と有りましたので、追悼文とします。
加瀬邦彦さんを知ったのは中1の時の夏に「思い出の渚」が出て、その軽快で明るい「湘南サウンド」に都会的な雰囲気を感じ好感を持ちました。次の年に「海に沈む太陽」「青空のある限り」「愛するアニタ」とヒットをとばし、その堅実な活動に羨望を抱いていました。
銀座で一度お会いした事がありました。ご自分のライブハウス「ケネディ」に向かう途中なのか急ぎ足でした。また、例の帽子を被っていなかったので驚きましたが、私の顔を見てニコッと笑ってくれたので、ファンとしてとても嬉しかったです。このたびは突然の訃報で言葉もありませんが・・・ご冥福をお祈り致します。合掌
2015年3月3日☆戦後70年・歴史の再検証のこと
今年に入り戦後70年ということで、以前の河野談話などに次ぐ様々な見直しが始まりました。
2015年2月18日☆松竹阿部監督応援団の新年会のこと
15日に恒例の阿部監督応援団の新年会があり、昨年新装開店したバラライカで楽しんできました。場所は「仙台サンプラザ六F」で以前の駅前と違い広く明るい雰囲気なので、多少映画好きの仲間の集まりと言うより、エンターテインメント好きの同好会の趣に変わってきました。京都太秦物語
その中で今回は上の写真にも有りますように妙齢のご婦人のコンサートもあり、新しい時代を感じてきました。なんでもトンペイの医学部で教授の事務をなさっており、お子様が三人で五十ン才でCDデビューを果たしたとの紹介でした。
最初わたしはわりと席が近かったので、あっ、「二十五歳ぐらいのお嬢さんが誰かの案内でパーティーに加わったのかなぁ」と思っていました。曲は自ら作詞・作曲をなさった歌でとても爽やかな感じの楽曲でした。
いよいよそのような時代が到来したんですね。
芸術は長く人生は短し
Arsラテン語でlonga, Vita brevis. ヒポクラテスが医術について言った言葉で、医術を修めるには長い年月を要するが、人生は短いから勉学に励むべきである。がもとの意味だそうです。
また「芸術家の生命は短いが,芸術作品は作者の死後も永遠に残る」の意で使われるので自分も若い時から肝に銘じていました。
そんなパーティー後の感慨を思い出していたら、昨日ネットでのニュースですが、いよいよ今年の秋にアメリカのコンテンツ最大手「ネットフリックス」が日本でもサービスを開始するという朗報が、発表されましたのでお知らせ致します。
ネットフリックスとは日本のTSUTAYAのようなCDやDVDのレンタル店なのですが、いよいよ技術革新を取り入れた、ストリーミングという方法でパソコンやテレビ、スマホでもドラマや映画が見られるサービスを始めたのです。
するとここで何が起きるかと言うと、以前から私が周りの方々に伝えてあるように、圧倒的なコンテンツ不足が生じるのです。世界で約四千万人の会員がいて、これから日本等でもサービスを始めるので、益々作品やアーティストが求められます。
そのためネットフリックスでも既存のコンテンツを各社から購入するだけでなく、アマゾンやグ-グルのように制作費を出し自前の作品を作る事になりました。
そんな状態でいまアメリカでは圧倒的に脚本家が不足し、高額のシナリオライターだと一作に付き一億円で仕事をしているそうです。いずれ当コスモス企画でも脚本家、映画音楽家を募集するかも知れません。乞うご期待です。いよいよ初期の目標である「コンテンツビジネス」の時代が到来したようです。
世界の憧憬「クールジャパン」・「オール日本」で発信して行きましょう。
◎ JUST IN TIME・TV ◎
2015年1月18日☆戦後レジュームのこと(戦後70年特別対談)から
2013年4月29日の当随筆【予告編】で「戦後レジューム」ついて書き置きましたが、今年はついにその戦後70年の時となりました。
二年前もそしてそれ以前も同じでしたが、近現代史の特に戦前・戦中・戦後については、多くの国民が学校でも一切習うことも無く、この問題に対してはまさにタブーだったので、寝耳に水、誰かが見た白日夢を聞かされているような状態でした。
おまけにその間、何も知らない国民に対して、さもすべて日本が悪いというような言いがかりを近隣国からも受けました。幸い長いあいだ誤報を訂正しなかった新聞社も、誤りを認め偏りがちな論調もすこし変化してきました。
しかし、これらの騒動はあるマスコミの誤報が元とはいえ、その問題に正面から反論出来なかったことが多くの国民的な不満となりました。そしてその根本的な理由として「戦後の歴史教育の不備に問題があった」と言うことが、ここに来てようやく周知の事実となりました。
私は二年前、この事に関しては「出版界も含めて」大いに取り上げ、国民的論議にする事になるだろうと予言しました。
そして今年、戦後70年を迎え、その記念として1月11日(日)に、ジャーナリストの保坂正康さん、元文藝春秋の編集者で作家の半藤一利さん等で「戦後70年特別対談」が放映され、今後の「戦後レジューム」に対する国民的議論の方向性が示されたので、ここにお知らせ致します。
わたしも二年前に出した「野武士の時代」はまさに「この時代背景を知ってもらうのが使命」と思って出版したものでした。あの戦争で亡くなられた方々は今のこの時代をどう思うでしょう。ようやく作品が日の目を得た思いです。また、このようなブームを起こし、作る事が出来て作家冥利に尽きます。
「神が決めた事」とは言え「天なる父に感謝」です。
多くの御霊が口に出来なかった無念な思いを伝えることが出来れば本望と思いこれからも作品を発表し続けます。そして、皆様が国家のあり方や歴史を思考するさいの参考にして頂ければ幸いです。今後ともよろしくお願いします。
2015年1月1日☆バズーカ砲弾の行方
あけましておめでとう御座います。
平成の御世も27年目であと少しで30年です。
昨年は午年で災害も多く国内いたる所で難渋しました。今年は「メリーさんの未年」でなんとか穏やかな暮らしを取り戻したいものです。
さて今年の経済の状況はどんな感じでしょうか。思いつくまま感想レベルで書きますから、まっ、当たらずとも遠からずぐらいの思いで読んで下さい。ただ、日本経済も世界の大まかな経済も、これまでより難しいベクトル向かっているようです。
しかしそれは追々と言うことで・・・昨年からの流れで特徴的なのは、鳴り物入りで放った二発の「黒田バズーカ」は「泰山鳴動してネズミ一匹」となってしまい、戦車はおろか二羽鳥一羽、七面倒臭鳥一羽にも当たらなかったようで?、今のところその効果が目に見える形になっていません。
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