2019年 ゴッドファザー逍遙記
2019年12月24日☆ クリスマス イブ
いよいよイブです。明日は主イエスの降誕日です。
今年も多難で立ち止まった時もありました。そしていろいろな恵や導きもあり感謝しているところです。
さらにここにきて来年のオリンピックイャーまでにと、準備してきたものが徐々に具現化してきて、継続の大切を実感しているところです。
そんな中、エンターテイメンツの話題が楽しいですね。1月には『あの日オルガン』が封切られ、続いて松竹の『男はつらいよ』のプロモーションで楽しませて頂きました。
そうして先月11月にはマーティン・スコッセシ監督の『アイリッシュマン』の宣伝が凄かったです。
写真は冬至に出された南瓜です。実はカボチャは母の大好物で幼い頃からしぬ程食べさせれたので、成人以降は見向きもせずでした。それを知ってるはずの家人が冬至に出したので、これも「出されものは黙って食え」の母の教えに従い箸を進めると「あら、まあ、おいしいね」となりこれならイケるから商品化しょうとなりました。
そして、三陸食品のデザート部門のひとつになりました。これも地方創生の、ひとアイディアです。なんでも商品になる格好のモデルです。多くの自治体の方々のヒントやモチベーション・参考になれば幸いです。ぜひ、「ふるさと納税」のラインナップに載るように、育て行きたいと思います。今後ともよろしくです。
※「冬至南瓜善哉」の原材料は南瓜・小豆・柚子です
あと、クリスマスについて、自分はクリスチャンではないのに、クリスマスを祝うのは、神を冒涜し罰があたるのではないか?と言う方がいますが、そんなことはないそうです。主はどんな人も受け入れ、信じる者を救って下さるのだそうです。
まっ、いまは幸い困ったことがなくても何かあったら信じて心から求めてみて下さい、初めは小さな事からです。きっと天なる父はなにかを与えて下さるでしょう。どんなクリスチャンの方もすべて始めは、にわかクリスチャンです。生まれながらのクリスチャンは存在しません。遠慮なくクリスマスを楽しみ主を讃えてください。
メリー クリスマス ゴット ブレス ユー「あなたに神のご加護が有りますよぅに」では 「よいお歳を」です。
2019年11月24日☆ 日常雑記など
なんやかやと仕事に追われて、集中してましたら11月も後半です。
本来であれば22日がケネディ暗殺の日なので、なにかしら報告しなければならんのですが、いま別の仕事も入り面目ないところです。
以前、こう言う時の井上ひさしさんの弁明の仕方はやはり天才的かつ芸術的でしたね。北杜夫さんとも交流がありましたが、北さんは絶対に締切前に出すのが習慣となってましたが、井上さんはなにせ号が「遅筆堂」※ですから、編集者も泣かされ手に負えませんでした。原稿催促の電話に「死んでお詫びします」なんて言うんですから(笑)
※ 井上さんが「遅筆堂」と名乗ったので私は「早筆堂」ソクヒツ堂(スグニカキアゲルドウ)にしました。
また、社会的なニュースでは某国で、ジ・ソミヤか、ザ・富谷か、とかで世間をお騒がせしましたが、結局、全部ガセネタでしたね。一番の恩恵者は日本のユーチューバーさん方のようでしたね。
情報の分析力とかの高さもユーチューバーの方が圧倒的に優れていて、日本のジャーナリズムや評論界はどうしたんでしょう、それとも何かバイアスでも掛かってるんでしょうか? その辺の大根役者よりも当たりませんでしたね。
ついでに「大根役者」の語源は、大根は元々水分が多く味は有りませんが、煮付けなどにするとその分出汁を吸い込んでくれて、けっこう重宝するし、あと多少作り置きして古くなり傷んだ物を食べてもお腹を壊さない、食痛りしないんだそうです。
そこで、いくら興業を打っても当たらない(流行らない役者)を大根役者と呼んだんだそうです。歌舞伎界から来てます(笑) するとこれからは「大根記者」や「大根記事」ってのも有りそうですね。
あと、昨年のちょうど今頃11月16日のこのコーナーに書いた、石巻のサン・ファン・バウティスタ号の今後のことですが、本日の朝日新聞に「なんらかの形で保存したい」と伊達宗家18代「伊達泰宗」さんが立ち上がってくださいましたので報告します「さすがだなぁ」と、ひと安心しました。私も出来るかぎり応援します。
もったいないので、解体しても燃やしたりしないで、計画が整うまで一時保管したらどうでしょう。また、台車かコロをつけて五月の青葉祭りに山車として祇園山笠のように引くのです。(大き過ぎますが)(笑う)きっと政宗公も「ホホー わしよりスケールの大きい伊達な発想じゃな」と言ってくれるでしょう。よろしくです。
終わりに、ケネディ大統領暗殺の中間報告で今回分の資料が整いましたので、ご紹介です。少し長くなります。
残念ながら2017年に前倒しを予定をしていた「2039年公開予定」の米国公文書館の資料は世界中から注目されたにもかかわらず、その年にトランプ大統領の「まだ問題がありそうなので2021年まで延期しょう」となり途中で沙汰やみになりました。
ところがエンターテインメント界ではこのチャンスを見のがすはずもなく、注目の新作がNETFLIXで発表されました。
以下プロモーションの引用です。読めば先に拙書『J・F・K ダブル スティツ』を読んで下さった方々には、どこかデジャヴュー感もあるはずです。まずはお読みください。
『兄は大統領、弟は司法長官として権力の頂点を極めたケネディ兄弟の相次ぐ暗殺。絶大な人気の裏で黒いうわさの絶えなかった労組委員長ホオッファの失踪・・・・・・。自由と平等を愛する国、チャンスの国アメリカの歴史の裏に潜む、もうひとつの真実とは。
イタリアのシチリア島にルーツを持つ犯罪組織、マフィアがアメリカ合衆国に根を下ろしたのは19世紀末から20世紀初頭といわれる。1920年代の禁酒法下、密輸酒ビジネスで巨大な利益を上げた彼ら「ファミリー」は急速に勢力を拡大し、50年代にはキューバの首都ハバナにラスベガスと肩を並べる一大カジノリゾートを形成するに至る。
59年そんな彼らに悪夢が襲った。カストロによるキューバ革命だ。共産主義政権の樹立は、マフィアの巨大な資金源が奪われることを意味する。到底見逃せない彼らは翌年のアメリカ大統領選で民主党のジョン・F・ケネディの訴える対キューバ強硬策を好意的に受け取り、陰で支援したといわれる。
しかし、当選後のJFKは、亡命キューバ人グループによる祖国への侵攻を支援するはずだったピックズ湾事件で空軍の投入をためらい、作戦を失敗に終わらせる。やがて、キューバは完全に共産主義体制に組み入れられることとなり、マフィアが大いに失望したであろうことは想像に難くない。
第二次大戦後、アメリカでは労働運動が大きな広がりを見せ、大規模なストライキが頻発すりるようになっていた。そのなかで頭角を現したのがジミー・ホッファだ。全米の物流を左右するトラック運転手組合のトップに立った彼は、敵対勢力排除にマフィアの力を借りる見返りに、組合の年金資金をマフィアビジネスに融資するなど、黒い交際を深めていった。
そんな彼の前にJFKの実弟である。ロバート・ケネディが立ちはだかる。組織犯罪の撲滅に闘志を燃やす若き司法長官は、ホッファの違法行為とマフィアの癒着を次々に暴き出し、ついに彼を刑務所に送る。だがロバートの強硬なやり方は多くの敵を作り、それがケネディ兄弟の命を縮めることにつながったとする見方も根強い。
収監から4年後。ホッファは組合委員長を辞任することを条件に、ニクソン大統領による特赦で刑期を半分以上残して出所。ホッファは大統領選でニクソンを支援し、選挙資金を組合が出すよう刑務所内から手配していたとされる。失った権力に固執するホッファは、委員長の座に返り咲くためにその後も精力的に動くが、75年のある日、こつぜんと姿を消す。
いまだその行方は知れず、殺害されたかどうかも定かではない。ただひとつ確かなことは、ホッファが舞台を去った後も後任の委員長からマフィアへの資金の流れは続いており、すでにホッファは完全に用済みだったということだ』(引用終わり)
※ニュージャージー州のフットボール球場 ジャイアンツ スタジアムに埋められたと噂されFBIが掘り起こそうとした事もあった。
いかがでしょう、私の『J・F・K ダブル スティツ』をお読みになった事がある方には、なじみの内容と表現ではないでしょうか。そしてケネディ暗殺の真相は先に拙書を読んで下さった、皆さまの方がその証人になって頂けるものと思います。
実はこれは11月27日にネットフリックスが全世界同時配信の新作『THE IRISHMAN DAILY』を朝日新聞に出稿した宣伝コピーの一部を転載したものです。ただし、ここまでの内容ではケネディ暗殺の全貌は五合目です。さらなる真相をご理解頂くため、この次回作は私の作品をシリーズ化するのがベターです。
ネットフリックスさん、続きは『J・F・K ダブル スティツ』で制作してください。
最後に、これで「早筆堂」の面目が立ちました。以上です。これからもよろしくお願いします。
2019年10月23日☆令和天皇即位の礼など
昨日はめでたくも新天皇の即位の日でした。
お祝いには191もの各国要人が来日し共に寿いて頂きました。これも戦後の昭和天皇ならびにさきの天皇陛下のたゆみない国際社会への貢献の賜物ようです。
無事に式典が執り行われ天に感謝です。
此処のところ、毎週のように荒れ模様の天候で、更に知り合いの被災もあり、やるせない日々でした。
被害に遭れた方々には心からお見舞い申し上げます。
あの3.11を共に経験しましたが、こう毎日のように災害のニュースに接すると、ある程度想定をしていても、インフラ整備などにおいてはさらに認識を変えざるを得ないかもしれません。
特にこのたびの水害においては堤防の決壊が多発し、予めの対策法としてたとへば自衛隊の特科部隊のさらなる増設、または災害救援体制の充実でしょうか。
例として考えられるのは、河川が反乱し洪水が起きてから土嚢を作るではなく、前もってテトラポットや土嚢を集積して置いて、嵐が小康になったらヘリで現場に運ぶのです。ただし、ヘリコプターは雨天では運用出来ませんので、そのタイムラグをカバーする工夫も必要です。
けして災害からの抜本的な解決法ではありませんが、風が衰え雨があがっても、まだ浪々と住宅地や農地に水が溢れのは忍びないです。弥縫策ではありますが一刻を争う現場には、急いだ分多少の減災効果が有るのではないでしょうか。また、いずれ決壊箇所は応急手当をしなければなりません。
救護には水上バイクやホバークラフト・水陸両用車も使えます。あと、これからの河川堤防を構築するさいには、土手道路のセンター地下に、予め鉄鋼の矢板を打ち込んだのち、両側から土を寄せ盛土してから、石垣なりコンクリートでのり面を養生しましょう。こうすれば「蟻の一穴」も「モグラの穴あけ」も防ぐ事が出来ます。
一方、遊水池が有効という見解もあります。規模にもよるのでは?、と思いますがこちらの意義も、ご一考くだされば幸いです。
あと、令和になって喜ばしい事として、今月初めに旭化成研究所の吉野彰先生がノーベル賞を授賞したことです。テーマは化学賞でリチュームイオン電池の研究でした。これまで技術部門は授賞頻度が低かったのですが 、効率的なリチューム電池がCo2削減で人類の未来に貢献すると判断されたようです。お目出度うございます。
さらに科学的な話題では24日に、グーグルの研究所でいよいよ量子コンピューターが、スパコンの演算速度を超えたというニュースがありました。従来型のスパコンが1万年かかる計算を200秒で終えたと有りました。本当であればこの間、亡くなられた西澤先生に報告ものです。
また、このような歴史的な快挙に生涯二度も遭遇出来たことを天に感謝します。おわりに即位の式典では「一天にわかに晴れ上がり」※ 皇居上空に虹が架かったそうで、天にも祝福されたのでしょうか。この異常とも思われる最近の天候異変に、世界を挙げて取り組む先導者が必要です。両陛下にその希望を託したいとも思います。
※は誤表現=遠藤周作先生のエピソードから引用です:「一天にわかに掻き曇り」は有り「晴れ上がり」は誤用。
私達も減災やダメージコントロール、そして台風の勢力減衰のための、Co2の再利用でドライアイスや液体炭酸の散布や,ヨウ化銀の散布も有ます。また進路のコントロールには(台風が発生する洋上宇宙に太陽光パネルを置き、発電と人工的に日陰を作る)の発想で知恵を出し合い、技術を上げて明るい未来にしたいと思います。
以上です。
2019年9月8日☆ 阿部監督応援団「寅さんの奥の細道」のこと
本日は阿部監督を囲む初秋のつどいがありました。また、例年のようにジャズフェスともかぶり、なにか、津田団長はジャズフェスに、タイマンを張らなければならないものを持っているようです(笑)
そしてここ数年津田さんが連戦連勝中のようです。
そして今回のハイライトはこの12月27日に封切られる松竹の映画『男はつらいよ 50 お帰り寅さん』のプロモーションビデオの素晴らしさでした。
前回も紹介しましたが、この作品のプロモーションには、山田監督の何時になく熱い思い入れがあります。それら20巻のプロモーションビデオを、前回に続き#13から#20までの各8巻を上映して、監督のレクチャーとなりました。
これで前回と併せて全巻を観たわけですが、今回伝えたいのがそのクオリティーの高さと、映画史に残るであろうとの思いです。本編の50本にも及ぶ作品群はもとより、この丁寧な解説ビデオを作ることにより、山田監督と阿部監督は自分達が生み育た子供達を見事「立派な成人」に育て上げたと言うことです。
東宝系などでも時々、黒澤監督の特集本を出したりしますが、やはり映像にはかないません「いいものを作ったなぁ」と神に感謝しながら鑑賞をしてきました。
そして監督とは、このプロモーションを台湾や香港にも向けて発信すると、やがてそのファンがインバウンド観光に繋がり、寅さんの舞台やロケ地巡り・聖地巡礼で地方創生や、クールジャパンに役立つことを確認してきました。名付て「寅さんの奥の細道」です。
わたしも当郵映放送で積極的に宣伝したいと話してきました。作品はロングセラーで永久保存版になります。
途中、瀬成田先生から挨拶を頼まれたので、前回約束したアニー・ブゼルの原作原稿が終盤に入り、今年の年末までには、アマゾン・キンドルで出版する予定と、話してきました。小説:『聖なる影 アニー・ブゼル』です。よろしくお願いします。
また、今回も瀬名秀明さんが出席してくれて、前回秘密だった新作を公表してくれました。タイトルは『ブラックジャク』だそうです。ジャンケン抽選で一冊だけでしたが、監督の一高仲間の方が本にサインをしてもらいゲットしました。こちらの作品もよろしくお願いします。
で、ジャズフェスも津田さんに負けじと、益々リキが入って来年が三十周年だそうです。早いものです。幸い天候にも恵まれ、遠来のお客様には面目が立ちました。
ただ、台風の影響で湿度が高いので、太鼓は音出しに苦労したようですが、ホーン系は音がよく響ていました。
あと、三十周年を前に感じたことは、各企業などが積極的、かつ商業ベース的に関わり始めて来たことです。この勢いで、プロを目指すプレイヤーにプラスになることを願うばかりです。
また、聴衆のレベルも上がり、プレイヤーのクオリティー云々も、昔からですが散見され悩ましいところです。
なんせ、第三回目かに愛子の民謡歌手、庄司さんがTBCの協賛で出演して賑わしたイベントです。そのへんの堅いことを言われると私も返す言葉もありません。
まぁ、「暖かい目で、かつ芸事ですから厳しく見守ってください」と言うところです。私はただ音を楽しんでいる感じです、今思えば三十年前に天より「これから更に大スランプの時が訪れるから、この音楽を聴いて慰みにしなさい」と言われた思いでした。それ以来こんなにも慰めて頂き、天と関係各位に感謝してる次第です。
もともと、ジャズはジャム「潰す」で日々理不尽な扱いを受け、毎日、心が潰れる思いをして生きていたニューオリンズの黒人が、たまたま手に入れたトランペットで、楽譜は読めないが、ムシャ クシャした憂さ晴らしにと、正調を潰して即興で吹いたのが始まりです。
だから好きな人は同じような心境の持ち主かも知れないし、嫌いな人にはそれなりに、音の乱れた耳障りなものとしか聞こえません。つまり、ゆるく言えば、その人の経験や遺伝的型質が好みに表れます。私としては、まずは「音楽」で本来的に無限かつ豊かな「音の世界を楽しむ」の趣旨を優先しているところです。
2019年8月7日☆ 令和時代クール&ディープな仙台七夕へ
こいよいよ時代も令和に移り仙台の七夕も華やかに幕開けしました。その始まりは400年前に仙台に伊達藩を開府した政宗公以来だそうです。
多少、その時代で規模の違いはあろうけれど、現代まで守ってきたようです。元々は中国の機織さんのお祭りで上品な女性文化です。
男性としては竹を切って来るくらいしか貢献出来ませんが、きっと、お父さんが「可愛い娘のために」なんて言いながら調のえてくれたものと思います。
私も小学時代、先生にいわれ何度も雨の中、自宅から竹を担いで登校した思い出があります。でも、当時、切った生竹を立ててはいけないという不文律がありまして、横にして更に笹を地面に触れさせて汚してもいけないという時代でした。
そして青年期には織姫と彦星のあつかいに不満を持ちました「仲が良すぎるから年に一度しか会えなくする」なんて「余計なお世話だ、ほっといてくれ」(笑う)とです。二人が恋人同士か新婚さんか分らないけれども、そんな邪魔するから少子化に成るんだろうがとです。
そんな事するとまた、アダムとイブの二人だけの世界に戻るではないか。そもそもエデンの園には二人しか居なかったんだぞ。 たいへんな人口不足で人手が足りないので、わざわざ禁断のリンゴまでカジリ「産めよ増やせよ地に満ちよ」とここまで増したんだぞぉ、と怒ってました(笑)まったく、天なる父の心 子知らずです(笑)
とは言え、お祭りの伝統を守り婦女子の成長と技能向上を願ったお蔭で、現在の日本は技術立国でもあります。反対にこちらより人口の多いお隣の国では、あまり熱心に七夕祭りをしなかったようで人は増えました。そして欲しがる物も多ので、私達は大量に生産して提供してます。そこに我が国の存在意義があるようです。
そこで、来年の今頃は東京オリンピック中です。ぜひ、このようなトラディショナルな「七夕 ラブストリー」のフェスティバルを,仙台に味わいに来て頂きたいものです。ぜひ工夫を凝らし「おもてなし」をしましょう。
以上、クール&ディープジャパン ストリーとしての誘い(イザナイ)でした。
で、写真は四国の阿波踊り団体の友情出演です。場所は常禅寺通から市民広場にゆく道で、第一生命ビルと亀井ビルの間の「つなぎ横丁」です。以前、ある県会議員の方から定禅寺通の活性化策を問われた時、このつなぎ横丁の第一生命ビルと亀井ビル及び信金ビルを再開発して「ニューヨークのラジオシティ」化を提案しました。
当時はまだ、定禅寺通には「FM仙台」があり、同じく「NHK仙台」が錦町公園に来る前でした。郡さんが市長になり新市役所庁舎建設や周辺の再開発を策定中ですが、いかがでしょうか。参考にして頂ければ幸いです。
そして当時はテレビ中心の「メディアシティ構想」・「地方創生アート構想」でした。
しかし現在なら大勢のユーチューバーもいます。幸いすぐ近くに市民広場・イベント広場があります。従って常時、インスタや映像メディアのニーズがあります。そこで第一生命ビル内にユーチューバーへのレンタルルームとか、市民広場でイベントをする際の、更衣室や控え室があると多くのイベンターが集まりやすくなります。
さらに定禅寺通と二番町通の(三越の反対側)角に大型イベントホールを作り、地下鉄通路で結び、冬場のシティ観光の目玉「映画祭」などを誘致すると寒さを気にせず、お客様が活動出来て、冬場2月頃の一番町への集客に寄与出来ます。 名付て「一番町・定禅寺通メディアシティ構想」です。どうぞよろしくご考察ください。
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2019年7月7日☆ 国際ILCと令和 Deep Japan 歌集のことなど
いよいよ7月7日で8月8日までの七夕の期間となりました。わたしは毎年7日をめどにシャツを半袖にする準備をします。自分ながらの衣替えです。
また、両Tさんお誕生日おめでとうございます。つつがなくお過ごしのことと存じます。今度また、あの笑顔を見せて下さい。楽しみにしております。
さて、5日の河北新報に3Aという記事が載ってましたのでご照会致します。「国際ILC」推進関連でこのような力を入れてるようです。地元の熱意が政府にも伝わっているものと思います。
もとより、3・11のリカバリーは復旧ではなく復興で行こうと、ここまで努力して参りました。
さらに産業経済でいえば世はまさに第四次産業革命で動いています。被災地で言えば旧態的発想の復旧ならばその時期は過ぎつつあります。
これからは良質な定着人口を着実に増やさなければならない、本格的な復興発展の足掛かりを築く段階に来ました。それには地元の優位な食品加工販売産業や、特徴ある観光地としてのポテンシャルを活し、さらに多くの先端産業や研究施設のインフラ導入が三陸地方には必要です。それらをゲットするチャンスが目前まできました。
確実な復興を勝ち取るまであと一歩です。これからも粘り強く挑んで行きましょう。関係各位の熱意が多くの方々に広く深く伝わるようお祈りします。私も文化面で復興を盛り上げようと「令和Deep Japan歌集」コーナーで万葉集などの歴史を通じて諸外国の方々に「深い日本」をご理解頂きたく歌会を開設しました。
◎ ここで一首: 新(あら)たまの 統率(すめろぎ)の御代(みよ) 至りきぬ 令和の春も ともに巡りて
※ さらに6日に仁徳天皇陵など百舌鳥古墳群が世界遺産に決定致しました。おめでとうございます。
※ 新たにクールジャパンのプラットフォームも立ち上げました。こちらもよろしくお願いいたします。
追伸:18日生まれのE様おめでとうございます。映画の話しも郵政の話しも面白くなってきたでしょう。最初の構想通りいきます。乞うご期待です。30日生まれの某D通の帝王様おめでとうございます。また、先日は大変お世話になりました。話しは順調です。今後が楽しみです。では、またです。
2019年6月18日☆ 梅雨のことなど
今年の梅雨は例年と違い空梅雨のようですね。じつは梅雨が大の苦手で、毎年「何とかならんもんかなぁ」と嘆きつつ過ごしています。
梅雨の一番の思い出はやはり歌中のころなんですが、朝、雨とわかるとそれはそれは憂鬱なものでした。なんせ、雨の中4kmの道のりを自転車で行くわけですからね。
みんな条件は同じですが、結構、悲惨な思い出もあるのです(笑う) 一年生の時、ある日、とてもひどい雨で、今朝は自転車ではとても無理となり、バス停に行くと馬場の猛者連が五六人待ってました。すると知り合いの工事用のダンプカーが通り、乗せてくれるというのです、バスは半端無く混むので大喜びで、雨も一時小降りになってきたので天蓋もない荷台に乗りました。
すると、ひとつ先輩で、かつ私の「グローバル理論」のモデルのカツロウ君が、やおら傘を広げだしたのです。私は「おいおい、先輩それはないぜよ、目に危ないでしょうが」と注意したんですが、あのカツロウ兄ニィです。聞くわけないです(笑)
ダンプが中山のバス停のT字路を左に曲がったあたりからスピードを出して、さらに誰かが「怪傑ハリマオ」を歌いだし、風雨のなか賑やかなもんです。ところが中西のカーブの所で対向車をかわそうと左に寄りすぎ、さらに急ブレーキを掛け停止したので同時に車が路肩から転がり、2m下に落ちて全員水田に投げ出されました。
幸い私はタイヤがズズッと鳴り、ブレーキ共に車体がグラッと左に傾き一瞬ワッと「暗くなったな」と思ったらなぜか土手の草むらに転がされて一人だけ無事でした。まるでダンプが横倒しに転がりながら荷物を下ろした感じでした。そして被害状況は鞄にすこし泥がついて教科書の一部が濡れていました。ただし皆は泥だらけです。
私がこのまま学校に行くというと「お前だけー」みたいな、雰囲気もありましたが・・・ほかの人はそのまま登校を断念しました。
それでも、這う這うの体で教室にたどり着くと、すでに朝のホームルームは始まっており、大森先生に遅れた理由を話さなければなりません。しかし、その時わたしは少し興奮してたようで「遅刻したため遅れました」と言うと先生は一瞬私の顔を見て、ただ「うん」と言っただけで何も訊かないのです。
反面、わたしは経緯をきちんと説明出来なかったのに、「あれっ」と思いました。
それで、叱られなかったのが不思議でしょうがありませんでしたが、あとで聞くとすでに事故の顛末は学校に連絡が行ってたとの事でした。それにしても「チコクシタタメオクレマシタ」は自分ながら相当の謎言で当時から作家しての片鱗があったようです。また、それを聞いて「うん」としか言わない大森先生も超大物でしたね(笑)
この頃に流行ってた歌は3月には三沢あけみが来て、誰かさんの十八番の笹みどりの歌謡ショーが、同じく屋体であったのは三年生の秋でした。また、ビートルズが初来日したのもこの年の梅雨時でした。そしてタイガースのモナリザの微笑が次の年の梅雨時です。
話しは変わり16日に所用があり上京しました。写真は先日トランプ大統領が訪れた皇居前広場です。宿が竹橋なので、桜田門をくぐり半蔵門線に至るために広場を横切りました。途中ベンチで一休みすると梅雨なのに青空と雲の白さがコントラストしていたのでパチリといきました。
多くのジョギング者が行き交います。ベンチから二重橋前、竹橋方面をみると三十年ほど前は一番高層だった旧東京海上の赤レンガ風のビルはすでに、他に追越され中高層という感じで時代を感じました。当時は皇居前のビルはここが一番高く、皇居内が丸見えで、昭和天皇の日常が覗かれて、失礼ではないかとか問題になりました。
そしてこの間トランプ大統領も宿った皇居前のパレスホテルもリニューアルと増築して綺麗になってました。そして自分もやがて「ここを定宿にしたいなぁ」と思いました。竹橋は同じアジア系の人が多くなり落ち着かなくなったからです。これも時代の流れか? 最近、近隣国の振る舞いを見ると福沢諭吉の『脱亜論』の気分ですね。
市ヶ谷から新宿に出て、久しぶりに小海線に乗り佐久平を経て、チープな信州半周をして帰ってきました。
2019年5月6日☆ 気仙沼第一聖書パプテスト教会のことの逍遙記
昨日は5月5日で全国的な日本晴れでしたね。令和時代の最初の「こどもの日」が天に祝福されて、未來を担う子供達にはささやかなプレゼントになったようです。
それで、今進めている脚本のため、気仙沼第一聖書パプテスト教会に行って来ました。
と言うのも物語を構成するのに、時代背景を考慮しなければならぬのですが、やはり明治時代の教会のことなので不明な点が2〜3あり牧師の峯岸先生に教えを乞うてきました。
そして先生の丁寧な説明にすべての疑問が解けて、続けて教会員の皆さまと日曜礼拝も受けてきました。その時も祭壇の後ろの十字架が五月晴れの陽光に輝いていました。まさにハレルヤでした。
あと、峯岸牧師ご夫妻に私の荒砥にいる母に慰問のことをお願いして、長年の苦悩を少し和らげて頂きました。きっと母もわかってくれるでしょう。
さらに天気も良いので、陽気にさそわれ教会のあたりを逍遙して来ました。津波の時、この地域が無事だったことに「天のめぐみで幸いだったんだなぁ」と実感していたので、海岸線まで行ってみたかったのです。教会の前の横断歩道を渡りすぐ海に向うルートです。道は工事中ですが周りの風情を楽しみながらの散策となりました。
途中、新しく出来た「JR岩月駅」の所で犬と散歩中のおじさんに会ったので、新駅の感想を訊いてみました。すると「そんな鉄道でもないBRTなんて、元々、国道45線にも宮交バスが走ってるのに誰が乗るかぁ」と、すごい勢いの「気仙沼ナショナリズム」全開のレクチャーを受け、久しぶりの驚きと可笑しみを感じました。
それで「村井君もこのナショナリズムに気づかずに、等閑に付してしまい後で怒りを買ったんだよなぁ」と可笑しくなりました。「気仙沼イズムは何年たっても健在なんだなぁ」とあらためて思いました。
浜辺に降りかかると目の前には「緑の真珠 大島」が美しくひかり輝いていました。森高千里の歌『渡良瀬橋』※の♪「きれいなとこで育ったね」♪という歌詞が浮かんで来て、誰かさんの「日常の風景だったんだぁ」と思うと、うれしくもなりました。
◎ いずれ、ここは鉄路が復活したなら江ノ電の「鎌倉高校前駅」と並ぶ写真スポットになります。
※また♪「床屋の角にポツンとある公衆電話覚えてますか」♪覚えてますよ。今は無くなりましたが美容院の前あたりに電話ボックスがあって、そこから電話をくれて「ギャラが足りなくなりそうで焦った」というエピソードを、思い出し笑いしながら書いた手紙を頂いたので、車でここを通るたびに当時が甦り、嬉しかったのです。
やがて浜に降りると、もう巨大なコンクリートの防潮壁が完成していて、自分の発案とは言え少し寂し気持ちになりました。生業のためとは言いながら、やはり自然を変えるのは些か心侘びます。たぶん、誰かさんも幼いころ夏にはこの浜辺で泳いだろうから、せめてその原風景が残っている内に来てあげたかったなぁと思いました。
ちょうど船入江に三人の地元の女子高生がいたので、むかしの砂浜はどのあたりか訊ねると「ここの右手、南側に少しあった」とのことです。時間だけが無情に過ぎていくようです。その時間の経過で今、あの震災をもとに映像化したいテーマがあり、進めているところです。
当初は余りにも生々しく遠慮していました。しかし、「リアル過ぎて、きっと、描き切れないだろうなぁ」と思ってた映画「タイタニック」でも見事に画き、むしろいまでは、共感や支持を得ており、また、作って残すことがあの震災に遭った者の使命か?、とも思っています。
◎ただ、そこには当然、個人情報もあり「自分が登場人物のモデルなんてイヤだ」とか言われるかと思いますが、ぜひ、ご理解頂くと嬉しいです。震災の風化を思い、皆さんの冷静で勇敢だったエピソードを、メモリアルな映像物語にしたいのです。あわせて皆様の協力もお願いします。
この日、朝早く出たので途中、野田で時間調整に、むかし、ヒデの元カノだった旧姓K.Oさんが某所にいると、旧姓T.Kさんに教わっていたので行ってみました。なんせ、この間、二回も空振りで会えませんでした。その度に「午後1時までなので帰りました」と告げられて,わたしも名乗ることもなく、残念となってました。
今回も「どうかなぁ」と冷やかし半分でしたが、なんと、前回の経緯が、皆に伝わってたようで、即座に呼び出してくれて「気仙沼ゴシップ恐るべし」です。でも、自分とは気づかぬだろうと「歌津の三浦○雄です」とボケて名乗ったのですが、見違えられる事もなくすぐバレました。そして懐かしい話しとなりました。
※本当は遠くからそっと、その後の青春を確認したかったのです。それがつい大げさな対面となりました(笑)
彼女は当時から小柄で美人でしたが、そのまま変わらずで、かつノリも良く、ヒデをネタに楽しく盛り上がりました。また作家の取材魂と学者の探究心満載で、その頃、カルメン・マキに似ていると噂のお姉さんもいて、その後どのように青春を過ごしたのかも気になっていました。すると今は名古屋いるとの事でした。
かつてのファンの方々への報告でした(笑)
という訳でK.Oさん、有難うございました。これからもお元気にお過ごし下さい。また、時間があったら寄ります。以上、この連休後半の逍遙記でした。
追伸:5月26日は京子さんと共に誕生日です。そして27日が伊藤さんとマゴの誕生日です。おめでとう御座います。また先日は気仙沼で伊藤さんにお世話になりました。プラザホテルは震災後のかさ上げ工事で、入り口が不明となり確認の意味もありました。そして帰り際に伊藤さんの兄上に会うことが出来て良かったです。
兄上にお会いしたのは何年ぶりでしょう? 以前は同じ郵政の職員でした。今は阿部長の専務で気仙沼・志津川の
統括者で、数年前まで私の兄が志津川の工場の責任者だったので大分お世話になりました。そんな話を三人でして旧交を温めてきました。もとを正すとお互い母方のルーツが同じですが、歌中時代は気づかずでした(笑)
そんなこんなで我ら二人、最強のコンビが歌中で出会ったのは奇しき縁でした。それを証明するように今日明日のこの驚くばかりの好天気です。おまけにアメリカからトランプ大統領夫妻まで、お祝いに駆けつけてくださり光栄の行ったり来たりです。日本国政府は大統領ご一行に丁重なおもてなしをして頂くよう希望致します。了
2019年4月1日☆ 新元号のことを思いつくままの逍遙記
中村草田男に「降る雪や明治は遠くなりにけり」とありましたが、ついに平成も終わりかけ「昭和も遠くなるのかなぁ」という思いです。
写真はかつて仙台市内を走り昭和51年に市電廃止と共に第二の活躍場を長崎市に移した、市電117号の最期の雄姿です。
この車両を見て懐かしくなる方も大勢いらしゃるかと思いますが、その長崎での活躍も先月30日で終わったようです。ご苦労様でした。
当時この117という番号は「いすゝず117クーペ」という名車を連想させて車好きの若者のあいだで人気の車両でした。
市電乗り場でこの117が来ると何かしら「おっ、ラッキー」となったものでした。ただ長崎ではゆえあって1051と車番は変りました。わたしも次の年かに長崎行った時、再会して嬉しくなった記憶があります。
今回の改元の特徴は言われているように出典の違いにあるようです。元々は中国の易経や論語などの漢籍の古典から縁起のよい漢字を選び並べていました。なぜ慶語かと言うと「治国平定・天下泰平」で国難となるような災い事が起きないようにと驗(ゲン)を担いで祈ったからです。これは現在も同じです。
では、なぜ年号が必要かというとコヨミを制定するためです。第一義的には宮廷行事の予定を書き込むためでした。次に年貢の納め時やイクサの時に地方の兵士を召集するため「何年何月何日までにどこそこに集合せよ」と勅令を発するのに時制の一致が不可欠だったからです。そして民衆的には種蒔きの準備などで暦が必要です。
そのため中国では「土地を治め 時を告げるのは雄鶏の仕事」ということで皇帝が制定していました。日本では奈良時代あたりまで中国との国交のため百済暦*1というカレンダーを使っていましたが、大化の改新の前あたりから陰陽寮が出来て独自の和暦になったようです。しかし漢籍からの引用は現代まで踏襲したようです。
*1:百済暦とは当時、朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡・玄菟郡・臨屯郡などの四郡は、中国の秦の始皇帝の孫達(前漢の武帝)が設置し地方役人として治めていましたが、西暦239年に倭国の卑弥呼が遣いをし土地は日本の領土でした。そのため外交的に毎年・新年の朝賀に使節が中国まで出向ていました。(今の大使館業務と同じ)
後に(西暦313年には百済領となり3〜6世紀まで任邦日本府を置いた)それで朝鮮は中国の柵封下にあり、時制が同じコヨミだった百済暦が参考として必要だったのです。また、百済王・新羅王の長男を日本語を学ばせるため人質※として保護していた。(彼らと後の百済からの亡命者が色々な物を日本に伝え多少その文物が残った)
※百済の王子・豊璋などでその弟善光または(禅廣)は亡命して後に「百済の小錦」を受爵し割りと厚遇された。
帰化した弟の善光王は日本にハチミツの採集技術「養蜂」を伝えたと言われる。桓武天皇の母親「高野新笠」はこの眷属(秦の河勝・弓月の君)で京都の太秦から出てると思われる。これが桓武平氏の始祖とされる。
のち663年に百済の支配下にあった新羅が反乱をおこし「白村江の戦い」になりました。日本は援軍を送りましたが挽回出来ず引き揚げました。これを機会に半島にあった権益を手放しました。
日本はこの戦争を契機にそれまで奈良・近畿地方を中心の国柄でしたが、新羅と中国軍の来襲を恐れて、筑紫に水城を築いたり太宰府に防人を置いたりしました。また関東および東北地方を開拓するなどの国力を拡大するため、律令制の制定を行い本格的な貴族・宮廷官僚の制度を導入しました。
それら中央集権のため日本独自の元号・暦を作り多賀城など各国府に配布しました。こうして初めての一応の統一国家の国柄が形作られました。ちなみにこの度の出典の「万葉集」が成立したのもこの前後です。そのために「防人の歌」などの東国訛りの和歌*Ⅱも選ばれています。防人の歌はもの悲しくも*Ⅲ味わい深い歌です。
*Ⅱ:入間道の大家が原のいわいえづら引かばぬるぬる我に絶えそね (東歌)
*Ⅲ:唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして (他田舎人の大嶋)防人など。
さらに国書の万葉集から「令和」の元号を制定した安倍首相の先祖が平安朝の陰陽師「安倍の晴明」です。コヨミ作りはすでに飛鳥時代に聖徳太子が派遣した遣隋使などが陰陽道を学んで来たので、国内でも陰陽寮と占いを司る天文台を置いたりしました。
その総理が中国振りの漢籍ではなく国書の万葉集から選ぶのは、なにかくしき縁(えにし)を感じます。なんでも日本風にアレンジして、良いものを世界に提供しなければならないこの国の使命でしょうか。
最後に、新たまの春と梅の開花を寿ぐ作品集の序文*Ⅳの典拠の後半「梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」を私流に読み下せば「梅花の宴に出る女官達は鏡の前で白粉のお化粧をし 貴公子達は腰帯に蘭の香りのする匂袋を薫らせて」参加した梅の花見の様子を詠んで初春の訪れを寿(ことほぐ)とても風流な序文ですね。
◎現在の春の園遊会につながるのでしょうか。雅(ミヤビ)な春のお花見だったようです。
*Ⅳ:前文の「新春令月 気淑風和」は中国の後漢の詩人張衡(78〜139年)の『帰田賦』の中の「仲春令月 時和気清」の古典から引いた可能性ありとか、後半部分の梅の花見に関しては太宰帥だった大伴旅人が当地で実際に催した「梅花の宴」の情景を序文に詠んだようです。(後半部分は三浦氏オリジナルの見解です)(笑う)
新元号が万葉集第五巻「梅花」の序文のように驗(ゲン)の良い「令和」な時代でありますようお祈り致します。
◎万葉集や平安朝の雅(ミヤビ)のことなら拙書「風に吹かれて」を参考になさることをお薦めします。そしてこれから誰も知らない万葉集の謎などを語っていきましよう(笑)まず「万葉」や「歌枕」とは何ぞやからです。
乞うご期待。
2019年3月1日☆ 映画『あの日のオルガン』上映期間延長のお知らせ
先月に封切りになった映画『あの日のオルガン』劇場版の上映期間が3月20日まで延長される事に決定しましたので、早速お知らせ致します。
この期間、当コスモス企画・郵映放送でも一押しの宣伝・プロモーションなので「喜びもひとしお」です。ぜひこれから春休みとも重なりますので、観ていただくと幸甚です。
私も封切を長町MOVIX仙台で朝イチに観ました。思った以上の観客数に手応を感じ、天に感謝して昼はモール内の「さぼてん」でトン勝を食べて来ました(笑)
本日は「日本アカデミー賞」も決定し益々コンテンツ産業が伸長して参りました。嬉しい事です。さらにクール・ジャパン、地方創生に弾みがつきます。
市場はアジア近辺・中国そしてヨーロッパへと向かい、ぜひ、ハリウッドに到達するのが目標です(笑)
今後ともご理解を賜り、気長にお付き合い下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
追伸:3月14日現在、上映期間が3月28日まで再延長になりましたので、喜びとともにお知らせ致します。
私もコンテンツ ビジネスの前途を祝して頂き、驗(ゲン)が良ったので「こいつぁ春から縁起がいいわえ」と、また「さぼてん」に行き、今度は勝丼にしょうかと思ってます(笑)
2019年2月10日☆ 恒例 阿部勉監督応援団新年会
昨日は恒例の阿部監督応援団の新年会でした。
写真は監督が企画制作した、男はつらいよ50周年記念「寅さんと50年」というタイトル番組のキャプションです。前回監督が明かせなかった作品の内容です。
なんでもテレビ東京で毎週シリーズで放映されてますが、山田監督から物語のキャプション映像を精緻に作成してほしいとの要望がり、監督自ら制作したそうです。
これを10分物ビデオ8本に分けて上映し、その後監督のレクチャーという形で進められました。津田団長名付けて「映画論高座」だそうです。
最終は20章まで作る結構大掛かりな物です。やはり撮影の苦労もあったそうですが、これが後にアーカイブとなる時には必須のアイテムになります。中国やアジア各国・全世界に提供されるときにも、無くてはならない、作品案内、導入部になります。「さすが松竹の丁寧な映像戦略」と思いシカと観てまいりました。
さらに今回のハイライトは、NHK記者・バルテンさんの久々の出席で、皆「あのスターは誰」と色めきだち、華やかさを添えてくれました。
また、わたしの前のテーブルには作家の「瀬名英明」さんがいて、久しぶりにお会いしました。近々、新作を出すそうですが、「タイトルは?」と尋ねると「まだ秘密」とのことでした。そして本人はダイエットし過ぎた、と話してましたが十分お元気そうでした。
最後に監督から新作についても熱く語っていただき、私も引続き脚本を書き進めることになりました。ちなみに地方創生の一環で仙台城のお堀・五色沼や富谷市の内ヶ崎別庭園、さらには気仙沼のパプテスト教会でロケが出来たらなぁと思ってます。
2019年1月1日☆ 新たな「高度情報化社会」に向かって
明けまして御めでとうございます。
今年も皆様にとりまして健やかでより良い歳でありますようお祈り致すます。
写真は今年2月22日に全国封切りの「あの日のオルガン」です。まだ、前売りもあります。ぜひ、お楽しください。
そしてうれしい話題として、W 主役のうちのひとり戸田恵梨香さんが、NHKの朝ドラ(秋から)の主役に選ばれたそうです。そちらの活躍も楽しみです。エールを送ります。
さて、当コスモス企画・郵映放送も予言どうり今年当たりから活動期に入りたいと思います。やはり、あの3・11から数年間、自分だけ前に進むもなにか思い、こんな時はみんなと同じ気持ちで、と思っていました。長い潜伏期間でした。
そんなこんなでようやく初期の目標であるコンテンツビジネスも動き始めました。その第一弾が映画「あの日のオルガン」のプロモーションです。よろしくお願いします。
そして新たな「高度情報化社会」に向かって、いよいよコンピュータ社会も次の「量子コンピュータ」の出現が取り沙汰されて来ました(決して猟師コンピュータ)ではありません(笑)
そんな中、地方創生やクールジャパンをより活性化させるため、当郵映放送を起爆剤にし各地の産業振興をはかって行きたいと思います。そのためにもネットの可能性を最大限に活かし、既存の流通網や生産の基盤である郵便局・農協・漁協等を再度、地域の生き残りをかけて発展の基軸に据えたい所です(ふるさと納税ゆうパック)
そして、これから進むであろう更なる「高度情報化社会」を供に乗り切れるようサポートして行きたいと思います。地方が生き延びるためにも「永遠のテーマ」です。ご理解ほどをよろしくお願い申し上げます。