☆ ◎四季島の三陸街道ゆかば◎ ☆
☆ 東海のシルクロード・陸奥の国・三陸と言う地名の由来 ☆
三陸と言う地名の由来は、古くは平安時代に東北地方の、主に太平洋側の三ケ国を合わせ呼ぶ古名です。
南から「陸前の国」宮城「陸中の国」岩手「陸奥の国」青森の三国を「三陸」と呼び習わしました。
古来から街道も整っており「東浜もしくは東山街道」と呼ばれていました。ルートは仙台までは「奥州街道」で、現在の国道4号線・東北自動車道沿いに青森まで続くのがメインルートです。また一方、浜沿いの磐城の国を経由して相馬・亘理に至る「東浜街道」は現在の国道6号線・常磐自動車道です。
仙台以北の東浜もしくは東山街道は多賀城・塩釜・松島・石巻・登米市柳津・南三陸町歌津・気仙沼市本吉・気仙沼に至り、さらに岩手県から青森県八戸まで続く、現在の国道45号線・三陸自動車道とほぼ同じルートを辿っていました。そして2011年3月11日の震災を乗り超え復興しました。「日はまた昇る・ネバーギブアップ」の地です。
旅の楽しみ方は、豪華客船で仙台港入りした方なら短時間で仙台市周辺などのグルメや、お土産は仙台港アウトレットモールでお買い物が楽しめます。フェリーで来る方は国道45号線と三陸道を八戸まで海鮮・山鮮のグルメドライブです。さらに青森から日本海沿いを南下するコースもありますが、そのまま北海道を巡って苫小牧からフェリーで仙台・名古屋に戻ると一層雄大な旅になります。またその逆のコースも有りです。
また夏休みにはキャンピングカーで涼を求めて、ゆっくりと八戸までその土地の食材でバーベキューグルメ旅行がお薦めです。冬休みには八戸から南に温泉を辿り、海鮮・山鮮料理でグリコーゲンたっぷりの肝臓補強の旅がお薦めです。ホテル観洋
飛行機や新幹線で仙台まで来た方はいずれ全線復旧する気仙沼線・三陸各線で「じぇじぇ」と「あまちゃん旅行」です。また、レンタカーや自転車で颯爽と八戸までトライするのも一生の思い出ですね。
あとは「三陸トレイル」をバックパッカーや教会を巡る「お遍路さん」もありですね。
雄大なリアス式海岸の歴史とグルメを堪能するもよし、地震や津波・地球温暖化の災害のメカニズムを考察するもよし、災害からのリカバリー・復興の様子を時間を追って訪ね「生活とはなにか生きるとはなにか」と自らの人生の参考にするもよし、最後に各種ボランテァや各教会を巡礼し犠牲者や自分の鎮魂の旅とするもよしです。
それでは、外国の方を見かけたら
「ハロー ハバーナイスデェー and ゴッドブレスユー」
(今日もいい日でありますように、そして貴方に神のご加護が有りますように)と挨拶と旅の安全を祈って上げましょう。
で、もし自信のない人が話かけられたら
「ソーリー アイム ベリー ビィジィー」
(私はとても忙しいので、申し訳ありません)と言ってその場を素早く立ち去りましょう。
英語での正式名称『Rising sun trail』
震災の経験を永く後世に語り継ぐためと、復興と再生に尽力したあかしに以下のネーミング理由です。
「日はまた昇る・ネバーギブアップ」で 『Rising sun trail』=『ライズング サン トレイル』です。
◎この名称はボストンの「自由への道」「フリーダム トレイル」に因むものです。
Don・Vito・Fumioneの街道を行く
陸前の国・宮城県編
それでは「Don・Vito・Fumioneの街道を行く」です。地球の海洋生物の約2/3種類が棲息する三陸沿岸「三陸街道を行く」の旅ガイドをお届けします。
旅の始まりは三陸の南の入口「亘理町」山元町からです。古来、亘理は南の「磐城の国」との国境で阿武隈川を渡って相馬地方と亘理郡で国主も違っていました。地名の由来は「東浜街道」の阿武隈川を渡る舟渡し場があり、それに乗ってワタルから「亘理」となったようです。ちなみに阿武隈川はここに鮭を獲る熊が出没して、熊と出くわすから
「会う熊」でアブクマのようです。
それで中央から派遣される国主で有名な人が清少納言の父で和歌で名を馳せた「清原の元輔」です。この一族が永く伝統的に伊具・亘理や南の福島の信夫郡の権守を努めます。のちに藤原氏を名乗りますが、そのため一族は三陸の「佐藤」さん達の一大ルーツのはずで、日本の佐藤さん達の繁栄の証です。
平泉の藤原氏も同じルーツで、始めは「清原」と名乗っていました。清少納言とは清原氏の娘という出自を表すものです。当時女性には姓がなく父親や「氏の長者」の氏名で判別してました。その一族が平泉を治めた縁で清原氏を名乗りました。
しかし、後三年の役をへて藤原氏が有力となったので改姓して「藤原の清衡」と名乗ったのです。これが「平泉藤原三代」の始まりで、名前の「清衡」に清原氏の「清」を残しました。
この時、前九年、後三年の役を首謀した「陸奥守」「源の頼義」の影響が残り「源氏」の根拠地のひとつとなりました。従って「源の義経」に最後まで付き従い討ち死にした信夫郡守の「佐藤兄弟」の義理もここにあったのです。
歴史的には阿武隈川の船渡しもあり関銭も揚がる街道の要衝で、郡役所が置かれ「亘理権守」と呼ばれていました。江戸時代には伊達政宗の従兄弟の伊達成実が藩祖となり幕末まで続きました。歴代、南の相馬藩とは強力なライバル関係で、相馬野馬追演習の仮想敵にされていたそうです。
土地の人々はおおらかで明るくわたしの好む方々です。JR亘理駅舎はお城を模したそうです。阿武隈川に産卵で昇る鮭が有名で「はらこ飯」と「亘理イチゴ」がお薦めです。ぜひ、食べ比べてレビューを書いて下さい。
亘理町HP グーグルマップ 伊達なわたり音頭 AKB48 山元町のほっき貝 NeT発送の土産店
次は仙台です。
歴史的に今わかっている事は七〇〇年代に聖武天皇が全国に発布した「国分寺」や「国分尼寺」令によって設立された「陸奥国分寺」が現在の若林区木下に設立されたのがハイライトです。その前に同じく若林区郡山に在った「国衙跡」の「郡山遺跡」はさらに日本史上注目に値します。大ハイライト「多賀城遺跡」の先代に当たる国の出先機関だったからです。
さらに遡ると若林区の「遠見塚遺跡」と太白区の「大野田遺跡」とかがありますが、人文科学的にはようやく遠見塚遺跡の「前方後円墳」あたりが私の限界です。文献も記録もなく発掘考古学で遡るしかありません。生命科学や物質科学の世界で「大野田遺跡」はそちらの領域です。
文献的に遡れるこの国の形はそう多くはないですが、それでも古くは三世紀ぐらいまでは遡れます。その他にはお隣の中国の歴史的報告書などにも時々散見されるものが有ります。
ただ、日本の歴史学は明治になって少し歪んできて戦前は天皇を中心とした「皇国史観」が全盛で、一応国の歴史書的存在の「日本書紀」なども研究が疎かになっていました。また、一時、何でもマルクス史観で割り切ると言う秀才達の横行も有り、私から言わせるとあまり満足出来るヒストリーではありませんでした。
しかし、最近、かってあまり顧みられなかった日本書記や続日本記の記述が、あちこちの発掘調査現場の出土品と符号したりしてすこし心強く思っています。そして私が歴史を考察する上で重要視しているのが「物の始まり」とその「ルーツ」です。
そのためフィールドも日本・中国・アジアに拘わらず中東や地中海にそのオリジンを求めます。案外地球は狭く多くの物資はエジプトや中東がオリジナルだったりします。それらが時の流れを経て、極東の日本などに辿り付き過去の日本人の生活を支えてたりします。
私の歴史観も小説もそのようなヒストリーや物語性が伝われば本望だと思っています。どうか、そのような観点でお読み頂ければ書き手冥利につきます。よろしくお願いします。
仙台市HP グーグルマップ さんさ時雨 すずめ踊り 青葉城恋歌
にっぽん丸 パスフィックビーナス レビューする 動画・旅の想ひ出
北のまほろば多賀城
歌枕その一 壺の碑
壺の碑とは多賀城の創建とその修復の由来を記したものです。多賀城は都が飛鳥から奈良の平城京に移されて、14年後の神亀元年(724年)に陸奥国府として築かれました。後に鎮守府も置かれましたが、国府は中央政府が定め、日本全国に68の地方政府が置かれました。そのうち多賀城は九州の大宰府と並ぶ規模で築城されました。大宰府は律令制の下、筑前国に置かれ、九州地方を統治し、西海道の諸国を管轄しました。七世紀ごろ、朝廷が朝鮮に出兵しましたが、白村江の戦いに敗れ、その反撃を恐れて、筑紫に防人司を置き外敵に備えました。唐軍の進入を警戒し、防ごうとしたのです。
多賀城の築城はそれと少し目的が違っていますが、同時代、東北地方の開拓の前線基地として築かれたものでした。大和政権は、大陸からの渡来人を初期のころには、五機内、都の近辺に置きましたが、その土地もなくなると、やがて、北陸、関東、陸奥地方に送り、定住を図りました。多賀城が築かれた頃は、関東地方の入植者は土地に根つき、生活も安定しはじめたので、開墾・入植地はさらに北に進み、現在の岩手県・伊澤の柵あたりまで北進して行きました。古来より日本には有名な石碑が三基ありました。いずれも記念碑的なもので、群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑、そして多賀城碑です。碑文の内容は、まず、多賀城創建の由来と、さらに創建から約半世紀後に蝦夷が氾濫し焼き打ちしたので、その後の修復記念に刻まれました。
さらに内容は城の位置関係を示し、平城京から蝦夷との境のこと、さらに常陸、下野、靺鞨との距離を示し、元亀元年に大野東人が城を築いた事、さらに天平宝字六年に藤原恵美朝臣が、城を修理し、同じく、天平宝字六年十二月一日にこの碑を建てたことが記されています。碑は時代の経過と共に忘れられましたが、江戸時代・松尾芭蕉のころ、偶然、土中に埋もれていた碑文が発見され、伊達藩が「失われた壷の碑ではないか」と丁寧に調査し保存しました。しかし、古くからこの碑について、真贋の論争があったので、その信憑性が問われ、江戸、さらに日本中で評判となりました。そのころ芭蕉は江戸で町役人をしながら、俳諧の師匠として売り出し中でした。そして自分の芸術家としての存在を確立するためにも、いにしえの「歌枕」を実際にその目で確かめたくて「奥の細道」の探訪に旅立ました。そして、石碑の前に立ち「千歳の形見」と涙したのでした。了
歌枕その二 末の松山
古来、末の松山を有名にした二首の和歌があります
◎ 君をおきて あだし心を 我が持たば 末の松山 波も越えなむ 古今和歌集 東歌 詠み人知らず
◎ 契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 波越さじとは 清原の元輔 古今和歌集・百人一首
どちらも相聞歌、恋の歌です。
平安朝以来、多賀城を語るとき「この末の松山をおいて語るなかれ」と言われ多賀城はおろか日本を代表する歌枕です。歌意は「わたしは貴方を置いて都から陸奥に赴任しますが、こうして袖を絞るほど、泣いているでしよう、だから絶対に浮気はしません、それは、絶対に波が届かず、絶対に波が越えないと言われる、多賀城の末の松山に誓って、誰とも一線を越えて浮気をすることは有りますせん」という男女の誓いの歌です。この内最初の一首目は詠み人知らずですが、二首目は清原の元輔が若きころ亘理権の守として郡役所に赴任した時に詠われたものと思われる歌です。
清原の元輔はあの『枕の草紙』で有名な清少納言の父で勅撰和歌集の選者でもありました。しかし、亘理に赴任後、誓を破り恋をしたようで、後の平泉の藤原氏や佐藤さん達の祖先となり多くの子孫を残したようです。またこの二首の歌こそ男女の契りをあらわす象徴的な歌となり、多賀城および末の松山を日本中に知らしめる、最高の歌枕となりました。しかし、後年この末の松山が何処なのか特定出来なくなり、さらにこの他にも末の松山という地名があり、かさねて「末の松山 波越さじとは」の意味さえ分からなくなりました。作家の司馬遼太郎さんも『街道をゆく』の中で今となっては分からないと書いています。
そして、この事は東日本大震災の時まで忘れられてました。しかし、1998年に私が出版した小説:藤原の実方『風に吹かれて』の中で、これは(869年)「貞観の津波」の時の話しで、このときも波は「末の松山」まで来たが、奇跡的にも越える事がなかったので、絶対に越ない事のたとえ話しとして都人に伝わり、それがやがて男女が末永く契る、たとえに使われていたのではないだろうか?と記すと、実際に3・11の津波でもやはり波は来たが、末の松山を越える事がなかったので、それが事実上の証明になり歌枕「末の松山」は多賀城で間違いないだろうと、歴史上の決着が着つきました。了
歌枕その三 沖の石
末の松山の坂を降るとすぐ下に歌枕「沖の石」が有ります。文学的にも有名な名所がこんなにも近くに有ることに多くの人が驚かされます。
さらにその風景をなしてる岩と池です。まるで人工的に作られた庭のようで、自然物とは思えないのです。ここが天然物ならまさに奇跡のようです。そして作庭ならば1300年も僅少な手入で、今に残ることは不可能かもしれません。
それほど存在が不可思議な景観なのです。今後も歌枕だけなく天然記念物としても大切に遺さなければならない景色です。 現在は(おくのほそ道の風景地)として国の指定地です。
そして、この景観に合う歌を遺し歌枕にしたのが、小野小町のこの歌です。
◎ 沖のいて 身をやくよりも かなしきは 都島辺の わかれなりけり 小野小町 古今和歌集
この歌は伊勢物語にある「都島辺の別れ」からきてます。その昔、陸奥国に男女が住んでいた。男は都に帰りたいと言った。女はとても悲しいと思ったが、せめて送別の宴ぐらいしょうと思い、沖の居の都島という所で詠んだ歌で、小野小町の作と言われてます。
その頃、身分制度のため、京役人が地方で愛し合った人を都に連れて帰ることが出来ませんでした。そのときの情景でしょうか。悲しい別れだったようです。 そこで小野小町の出生地、系譜ですが、古来よりあまりにも言い伝えが無数に有り、どこが本貫の地か比定するのが困難です。
準公式と思われる『尊卑分脈』身分帳には祖父が小野篁で、父、小野良真は出羽郡司、秋田の雄勝で地方役人をしていたようです。そのため父の転勤があり日本中を渡り歩いたようです。なので国中にゆかりの地があるようです。しかし、成人後には、「采女制度」に乗り、都出仕を果たしたようです。采女制度というのは、朝廷が定めた官職で、地方官の子女が都に登り宮廷の下働きにつくことが出来る制度です。規則では一国から2~3人の娘を出す事が出来ますが、給料はその地方が負担しなければりません。
この制度はけっこう人気があり、京官人が地方で産ませた自分の娘達の出世にもなるので率先して上京させました。運が良ければ天皇の目にとまり、皇后になることも可能なので「玉の輿」に乗れるわけです。その為には知識や教養も必要で、地方の国分尼寺などで勉強もしなければなりません。仙台なら陸奥国分尼寺で多賀城なら現在もある観音寺です。ちなみに地方で生まれた役人の男の子や平民男子も国分寺や各寺で三年間勉強して、試験に合格すると役人になれました。試験は年二回あり、その願書の提出先も各地の観音寺と定められてました。
そのような時代背景なので、地方出身と思われる、小野小町にも和歌が詠める素養があったようです。了
歌枕その四 おもわくの橋
◎ ゆうされば しお風こして みちのくの
のだの玉河 千鳥くなり
能因法師 新古今和歌集
おもわくの橋は多賀城を流れる野田の玉川に架かってる橋です。この辺りは古くから多賀城、塩竃の繁華街だったようです。川を挟んで両岸に柳の木などが植えられ商店や飲み屋街で賑わってたものと思われます。ここに第90~98代日本国総理大臣安倍晋三さんの先祖が歌枕成立に関わっています。時代は平安後期のころです。
古来、日本の兵制は誰もかれも侍になれた訳でもなく、ある程度身分制があったようです。ヨーロッパは特に長い間、傭兵制度が続いていました。日本も国民皆兵制度になったのは明治になってからです。そんな中、防人制度なども一般平民を集めたわけではなく、各地で官職についていた者が招集されたようです。
そして有事が遠ざかるとまた官職に戻るようです。ただ御所の警護や天皇の御幸さらにお出かけ、儀式には侍は常に必要です。彼らはこれらの職務を班制度の下、半月交代でこなして行きます。この軍隊の班制度がのちの幕藩体制での藩の文字に変ったのは、この班制度からきてます。これを大番制度と呼びます。そして責任者を番長と言い制度の発足当初は、都の近辺五畿内の臣下が努めてましたが、しかしこれは中々過酷らしく、五畿内は免除され次に、関東や北陸、東国の開拓武士団に負わされたようです。やがて、朝鮮の白村江の闘い後に東北の開発の拠点、多賀城の創建後には、東北人の一部は奈良・京都勤務ではなく、多賀城勤務もあったようです。
そんな折、安倍総理の祖先、安倍の貞任も陸奥国、岩手「厨川の柵」の柵主の次男として辞令を貰い多賀城に勤務してました。任期は都と同じく三年間です。そしてたまには、野田の玉川辺りで飲んでたりしてました。そして地元の女性を見初め付き合うようになり、この橋でよく待ち合わせをしました。しかしある約束の日いくら待てども彼女が現れないので、内心あせっているとその気持ちが乗っていた馬にも伝わり馬がイライラしながら足踏みすると板張りの橋を踏み抜いてしまったそうです。それが故事となり歌枕「思惑の橋」となったそうです。
安倍貞任は身長180センチもあり男前で和歌の素養もあり戦場で頼義と和歌問答もしました。地元、厨川に正妻さんも居ましたが、さらに、国府多賀城主だった陸奥守「源の頼義」の部下「藤原の光貞」の妹を嫁に欲しいと婚姻を申し込むと「お前のような俺より身分の卑しい者に妹はやれん」と断れてしましました。それやこれやと、あと年貢の徴収や納税のことで源の頼義の策略にはまり「前九年の役」を起こし戦死しました。安倍家は弟の宗任が西国「伊予」に流されましたが、家柄だけは守られ、何より多賀城に歌枕を残してくれました。元々、安倍家は安倍の晴明が陰陽師・天文方なのでコヨミを作ってたりしてました。この度、その子孫が元号「令和」を制定しました。了
歌枕(考)
その五 大伴家持 実方中将 西行 芭蕉
ここで「歌枕」とは何かという考察です。
太宰府は南の「歌枕」の始まりです。元号「令和」の出典元になった「梅花の宴」を大宰府で催したのが、大伴家持の父、大伴旅人でした。二人とも武人の家柄ですが万葉歌人でもありました。大伴家の祖先は神武天皇の東征以来の天皇の最側近の貴族です。しかし 家持は出世争いは苦手なのか「万葉集」に生涯をかけたようで、陸奥国鎮守府将軍にも叙任はされてますが、実際に赴任したのか揺任だったかも不明です。それでも、我が国の藝術文化においては「万葉集」を編纂したという事で、その功績は並ぶ者はありません。その万葉集の中で多賀城を日本中に知らしめてくれた歌があります。
◎ すめろきの 御代栄えむと 東なる みちのく山に 黄金花咲く
この歌は聖武天皇が奈良の大仏を創建する時、その鍍金(ときん)に使われる金が日本には産出しないので中国から輸入してました。しかし高額なので圧倒的に足りなくて、工事も止まってました。すると偶然、運良く、みちのく涌谷の箟岳山(ののたけさん)付近から、日本初の金が出た、との報告を受けたさいに詠んだ歌です。一生懸命に皇室に良処してます。このとき、みちのくが日本中に知れ渡り、ゴールドラッシュとなり称賛と憧れの地になりました。「黄金と言えばみちのく」というように人口に膾炙して、宣伝フレーズとなったのが「歌枕」の始まりです。のちにこれが、国分寺や京都の貴族の学校・勧学院などで学ぶ学僧達が、和歌の試験を受けるときの暗記物のひとつになり普遍的に広がっていきました。さらに百人一首が登場すると庶民にも一層広がりました。西暦750年頃の話し。
やがて西暦1000年頃、天皇に命じられ歌枕を実際に観にきた人がいます。このころ「歌枕」という言葉は確実に定着してたようです。一条天皇が藤原の実方に言った「歌枕みてまいれ」です。実方中将はこの言葉が辞令となり、みちのく多賀城に陸奥守として赴任しました。そのときに交わした清少納言と実方中将の歌です。
◎ 思いだに かからぬ山の さしも草 誰か伊吹の 里は告げしも 清少納言
歌意:思いがけない人事ですが、誰かに一緒に行って暮らそうと、告げたのですか。
◎ かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを 実方中将
歌意:そのように問われても、いいえとは言えません、察っしてよ、分からぬでしょうか 、この燃ゆる思いを
清少納言に誰かと問れたのは実方が付き合っていた紫式部の事です。このころ清少納言は皇后 定子付の女官で一方紫式部は中宮 彰子付の女官と宮仕から文学、さらに実方中将を巡っての恋のライバルでした。一条天皇は『光源氏』のモデルの一人とも言われた藤原の実方の身辺を整理させる為にも陸奥守にしたのでしょう。(推測)
この後、西暦1200年前後、実方中将や能因法師の足跡を訪ねて歌聖と言われた西行が生涯二度に渡りみちのくの「歌枕」を探訪してくれました。さらに、これを慕い西行没後500年ということで今度は俳聖松尾芭蕉が「おくの細道」を訪ねてくれて「壺の碑」の前で「これぞ1000年のかたみ」と涙してくれました。それ以来
「北のまほろば多賀城」は日本を代表する「歌枕」としての地位が確定しました。 歌枕(考) 以上です
多賀城市HP グーグルマップ 松尾芭蕉:奥の細道 AKB48
陸中の国・岩手県編
久慈といえばこの偉人と琥珀採掘をおいて他は語れません。そう、講道館柔道十段・三船久蔵です。
私も十代からあの「空気投げ」を追求と研究をしているのですが、未だに窮めていません。また、三船十段の勇姿を見たのも前回の東京オリンピックの時に、テレビで放映された模範演技を見たのが最後でした。まるで手品のような演武でした。
もうすこし詳しく知りたかったです。今もって分からないので、合気道の一種かと思っています。また、本人も亡くなり、技を受け継いたという人も居ないようなので、そのまま不明なのではないのでしょうか。
誰かが知っていれば、今度のオリンピックでは日本の金メダルは間違いないはずです。一応柔道の本には「隅落とし」として載ってますが、あの解説では姿三四郎(富田四郎)の「山嵐」と同じで実戦では本人しか使えない技ではないかと思っています。
久慈市HP グーグルマップ 南部牛追い唄 あまちゃん AKB48 NeT発送土産店