☆ プレート テクトニクス理論の解析
今月の11日で震災から十年です。このコロナ禍も含め、人の命や運命なども考えさせられる歳月でした。津波では多くのいとこ友人知人を失いました。
まだ、忘れることはおろか整理もついて居ません。
五学級のとき、担任の佐々木朗先生から「実はチリ津波で流された子供がまだ見つからないんだ」と打ち明けられ驚きました。
津波から八年たっていました。その時''ああ、先生はまだ探しているんだぁ,,と思い人生経験の浅い自分には重い教訓になりました。
その話をある人に何度も話ていましたが、3・11前にもそんな会話をして「探しに行かないからね」などと冗談めかしていましたが、直後にあの地震となり、複雑な思いを抱え込みました。
防災庁舎に居た二人の従兄弟と、志津川病院に入院してた 初恋の人のお母さんは、今だに見つかって居ません。本当に「どこに行ったんだろう」との思いです。
行方不明な従兄の一人は東北学院を出て「役所勤めなんか真っ平」とか言って少し離れた所に就職しましたが、結婚してやむなく地元に戻り入りました。その事は祖父母をとても喜ばせました。
そして、定年まであと20日という時に遭難しました。なんでも、総務課の金庫の鍵の扱いが決まってなくて親しい高校の後輩と話合ってたとの目撃証言です。その後輩というのが健(五学級)の長男でとても良い子でした。従兄は歳が私の三つ上でしたが、何故か疎遠でむしろ兄と仲が良かったです、気が合ったのでしょうか※
ただ、亡くなる一年半位前にファミリーの祝い事、姪の結婚式があり、その時、三時間位、じっくり話ました。その頃わたしが戦死した眞一伯父の経緯を調べていて、靖国神社や県庁の戦死者名簿の不備などがあり、母の実家の当主だった彼に、それらの史料を伝え渡すためでした。
するととても喜んでくれて、初めていとこらしい会話をした思いでした。その様子を見ていた姉が「珍しく二人で話込んでいたね」とやはり意外だったようです。運命のようでした。式場で讃美歌を歌わされたときも偶然近くにいて「昔習ったお陰で口パクでなくて良かったね」などと妙に話が合いました。
※しかし二人とも祖父譲りでB型だと気にしてました(笑)「へェ-それは良かったね、祖父と同じで光栄だね」と私が言うと、さらにもう一人役場に行ってるB型の従弟と三人で複雑雑な顔をしてました。私にしてみれば母もB型なので違和感は無かったので、可笑しくも不思議でした(笑) ちなみに私はA型です。(個人情報)です。
その時の四方山話に「何になろうとしてたの」とあらためて聞くと「教職を取って先生になろうとしてた」と聞きとても驚きました。噂では''自分の父が先生なので教職は嫌だ,,とか言ってると聞かされていたので、とても意外でした。確かに勉強家なので性格は先生に向いていたかも知れません?
私は勉強をしたことがないので皆さんの思い通り「絶対」に有り得なかったです、ハイ。ただ、この結婚式のあとに自分の著書『J・F・Kタブルスティツ』を贈ると「従兄弟達の中から作家が出てとても名誉で嬉しい」と、丁寧なお礼の手紙をもらいました。''これですでに亡くなった祖父母も喜んでくれるな,,と密かに思いました。
で、この従兄と昨年の九月に書いた『ブックエンドのテ-マ』での生家の分家「向の妻」の当主、三浦毅氏は更にいとこになります。二人ともこのように防災庁舎で行方不明になりました。我が家の複雑な姻戚関係の一端です。母方の従兄弟(従姉妹)だけでも二十人いました。早く家族のもとに帰ってくるよう祈ります。
それで次に先月13日にあった地震からです。そもそも地震の事はライフワークのようなものです。バイオの次に古いです。ちなみに何故バイオかと言うと例の生家の西ノ曲輪「出の妻」に樹齢八百年越の松の木があったからです。屋敷の左右「東西ノ曲輪」に五郡松「こごうりのまつ」と言って敷地に五本づつ松を植えたそうです。
鎌倉から移り住む時に植えられたようです。それでも「東ノ曲輪」の五本は塩害で何度か植え代えられたそうで、あまり樹勢が良くなく迫力はなかったのですが、反対に「西ノ曲輪」の五本うちの一本は直径が二メ-トル近くありました。さらに根本から上、十メ-トル位から三つ又に別れる珍しい黒の笠松でした。
それはもう見事な松の大木でした。ちょうど伊里前の西光寺の「サワラの木」のよりもちょっと太い、みごとな品格のある松の木でした。しかし、これが私の小学に入学する二年前の春に伐採されました。その最後に大地に倒れた時のさまが、大迫力でまるで地震のように地響きして「出の妻」が揺れました。
この前後、切られた松木の根元を通りながら、いよいよ入学で、するとこの自由な空間(出の妻)に居れなくなる事、さらに宇宙のはての事や植物(松)を通じて(生命)の事を考えてました。
更にその二年後にチリ津波が来たのです。このとき佐々木朗先生は志津川で娘さんを流されて亡くしたのです。そして大森先生は自分が住んでた「廻館」の大森城の石垣の上から津波が押し寄せるのを見ていた、と授業のとき何度か話してましたよね。佐々木先生のお嬢さんは私達と同い年だそうです。
ここから九年後、わたし達が修学旅行で東京に行ってきた一ヶ月後、五月十六日に十勝沖地震が起きました。この時初めて大森先生から地震のメカニズムを教わりました。この時も、すぐ津波が来て二階の十二学級の出窓にトシさん達とよじ登り、伊里前湾の第二堤防を海水が越えナイアガラの滝のように落ちる様を見てました。
ちょうどこの日、善昭氏が休みで海に出てるはずと思い随分と心配しました。前日に「明日海に行くので休む」と言ってたからです。しかし、次の日、無事に出て来て心配してた旨を伝えると「それよりもあと十日でそなたの誕生日ださ」と言われ「えっ」となり自分の誕生日が二十六日なのを忘れてました。
反対に自分より彼のほうが誕生日を覚えてた事に、とても感謝したのでした。華の歌中でワイルドな青春を過ごしてました(笑う) そしてこの日の帰りのホ-ムル-ムまでには津波騒ぎも小康を得て、先生が地震のメカニズムについて説明しました。わたしは「よっ、待ってました」とばかりに身を乗り出して、ご拝聴致しました。
それによると「地震と津波の原理は、まず、地震は海底下の地層に石灰層があり、そこに永年にわたり海水が浸み込み、やがて鍾乳洞の空間が出来、いずれ海底と海水の重さで崩落して地震が起き、その新しく出来た窪地に落ちた水が溢れて津波になる」との理論でした。先生の教へです。フムフム、疑う余地なし。私は信じました。
しかし、Not only but also and etc. 高校での物理の時間のことでした。本当いうと、当時はまだ地震のメカニズムは不明とされていた時期でした。まっ、今でも必ずしも確定してるとは言えないですが・・・たまたま地震のメカニズムの話になり、わたしは中学で習った前述の大森理論を臆面もなく披瀝しました(笑う)
すると斜め前あたりからボソッと「ちがうよ、今はプレ-トテクトニクス理論といって、海底の岩盤プレ-トが動くと言う仮説が出て来てるよ」と、のたまうではありませんか。誰かと思いきや、時々、数学で百点取って「やった やった」と両手をあげてガッツポーズをするのが有名な、某階上中のカッチンじゃありませんか。
ちなみにあとで何故「カッチン」なの、と''ある人''にたずねると、本来はカッチでカッチンは変化バ-ジョンのようでした。なんでも子供のころの「テレビ漫画の主人公から来てる」との話でした。(個人情報)です。
と言う訳で早速、私は図書館に駆け込み調べたのですが、有りませんでした。カッチン恐るべしです。どこで知ったんでしょう。そこから、私の「プレ-トテクトニクス」の密かな研究が始まるわけです。ただし、この時点で、自分の不明を恥じる必要はなく、高校の地学にプレ-ト理論が初めて載ったのが1974年だそうです。
まさに後学の事となってしまいました。そんな密かな研究の中で起きたのが1978年6月12日の「宮城県沖地震」でした。しかし、このときもプレ-ト理論に触れらることは一切有りませんでしたが、自分としては間違いないと確信が進みました。(この時の約40年周期の地震の存在は以前からある程度想定されてたようでした)
そしてこの度の3・11も40年周期の「宮城県沖地震」をタ-ゲットに警戒しておりました。そのため揺れ方もせいぜい30秒から1分と思い、ベランダの太い柱にしがみ付き辛抱してましたが、なんと3分に達する長い揺れで想像を遥かに越えました。さらに震源の深さが約24Kmで、宮城県沖の40~60Kmの約半分の深度です※
※ 従って、当地域はまだ揺れ残ってる可能性があり、改めて40年周期の「宮城県沖地震」にも注意が必要です。この揺れが後に述べる「海嶺」や「海山」のなごりがプレ-ト境界(摩擦面)の中程、途中に引っ掛ってる「固着域」の可能性があるからです。
そして時間をかけて研究し、この地震津波が「プレ-トテクトニクス理論」由来である事が、自分の中で確定しました。しかし、気象庁もマスコミもその名称には一度も触れないです。しかし、解析では上の写真のような説明をしています。あれこそがプレ-ト理論そのもなのです。そして次に予知についてです。
しかし、ここまで来ても予知は今だ実現しません。それでもプレ-トの数や動く方向がある程度判明してきたので、とくに日本海溝付近の揺れのモデル、手掛かりはつかめるかも知れません。それには、事前に探査しなければならない事項もあるのです。それが前述の「海山」の存在です。以下説明致します。
まず、日本列島が載っかてるプレ-トはよく言われる、ユ-ラシアプレ-ト、太平洋プレ-ト、北米プレ-ト、フィリピン海プレ-トの4つで、この内、三陸に関わり影響を及ぼすプレ-トは北米プレ-トと太平洋プレ-トです。基本的に地球はまだ若くて球体そのものが成長途上で膨張中なのです。その証拠が火山の造山運動です。
とりわけ太平洋プレ-トは米国のカリホルニア沖で誕生し、西に向かい年間約10Cm移動し、日本列島を目指して西進します※その海底火山が太平洋の途中で海面に顔を出したのがハワイ諸島です。この海底の地殻が動く事を「プレ-トテクトニクス理論」と言ます。よってハワイ諸島はやがて日本と繋がり列島の一部になります。
※ 反対に東進するのがカリホルニアのサンアンドレアス断層で、サンフランシスコ地震に影響を与えてます。
こうして日本列島に押し寄せた太平洋プレ-トは北海道や東北地方が載っかてる北米プレ-トに乗り上げるのではなく、海側のプレ-トは重いので下に潜り込みます。このとき出来たのが日本海溝でプレ-トとプレ-トの境目です。ものすごいプッレシャ-を地殻にあたえ海面から一万mも海底を凹ませて(トラフ)溝を造っています。
列島の東から押し寄せる太平洋プレ-トにぶつかられて上下にすれ違った地殻の上方、北米プレ-トは大体1m位まで下方にメ繰られ、引き摺り込まれる歪みのストレスに耐えられますが、約千年単位でその不自然な態勢を、土の安息角を求めて一気に解消しようとします。それが今回のような千年に一度の大地震です※
※ただし、その途中に40年及び400年に一度位にも蓄積した歪みを解消するため地震を起こす「固着域」(地震の巣)があります。上図の先月二月十三日の福島県沖の地震もそのメカニズムの可能性ありです。
そのため予知をするには地殻の歪みの溜まる時間と速度の(積分)Aと、地殻が載る列島地域のプレ-トの重さBとプレ-トの接地面が解放する摩擦係数(微分)Cが解り、更に潮汐の周期と出来ればマグマの動きが分れば、ある程度の計算が出来て何時発生するか分かります。しかしこのCの摩擦係数で隠れてる探査事項があるのです※
※それが例えば先ほどのハワイ諸島や伊豆・小笠原群島などの海底に潜んでいる「海山x」です。太平洋の海底は必ずしも平板ではなく海嶺や海山で凸凹になってます。少し大げさに言えば、富士山の山頂が、日本列島の下のプレ-トにゴリゴリと潜り込んでると、イメ-ジして頂くと分かりやすいです※
※(ただし伊豆半島は潜り込まず列島に接地して陸を押あげ富士山を重さ1兆1500億tまで成長させている)
実はこの海山が陸側のプレ-トの下に潜り込んでいる事に誰も気が付いて居ないのです。ただ、その現象の根拠はあります※1 それが「固着域滑り」で時々急激な地震でストレスを解消しているのがそうです。一方「スロ-スリップ」※2は数ヶ月かけて滑り面の摩擦エネルギーを解放していて大地震の前には此方が先に滑ってます。
※1 日本列島の太平洋側の海溝地図を丹念に見るとかつての島が半分まで潜り込んだ海山の痕跡が見られます。
※2「スロ-スリップ」とはプレ-トどうしが固着せず、普通に上下にすれ違っている所に海水が潤滑油の作用をしてゆっくり動いている接点です。最近判明しました。固着域と並びこれからの研究が待たれるところです。
注:スロ-スリップ=「ゆっくり滑り」のこと
従ってこれら(仮説)の素朴な数理モデルを成立させるにはどうしてもこの「海嶺」や「海山」由来の(地震の巣)
「固着域」Aを徹底的に探査する必要があります。(Bの重さの単位は大きくなりますがスパコンで計算可能です)
A=
a=1年 b=1000年 B=t=Kt C=微分≒μ=tanθ D=潮汐の周期=365日 E=マグマの動き?
y=固着域硬度数=HRC
これらの式から二次関数的に経済学で用いる限界効用曲線で地震発生時x=AF(界面破壊)の地震予知が出来ます。ただ、Aは仮定数を入れ、マグマの動きは ? で算入せず、残りの算式でぜひ一緒に式を完成してみませんか。
あとAは定積分を使わず、普通に四則演算・加減乗除でも算出できるかも知れません。積分の記号式インテグラはワ-ドで探せなく、PDFなので小さくなりません。例によってSの文字がコンピュータが斜め上に行けないためらしいです(笑)。
また、Cも微分を使わず普通に固着する斜面面積と(海山の頂)の変数が分かれば摩擦係数でも可能かと思われます。式を難しそうにしないと、それらしく思われず科学的でないと言う、この世界の方々、秀才さん達へのオマ-ジュです。ご理解下さい。
こうして震災から十年と言うことで、以下の経緯となり、これが私の十代から探究して来た地震のメカニズムに関連する一連の出来事のひと括りの結論となったようです。さらにCOVID-19ウィルスによるバイオ関連の事も合わせて,これまで研究して来た※「答えの無い未知な学問」に、ここに来て(仮説)でも大結論が出せました。
※ 十年前に『Don・Vito青春記』の「歌中卒業」時を描いた以下の文書を敷衍した形になりました。
しかし、そこにはこれまでの日々の研究から想定していた、真の「歌中魂」が必要とされる、乗り越えなければ成らない国難と、新たな時代が待っていました。『日はまた昇る Never Give Up』です。
◎ その巡り合わせを根気よく読了くださり、歴史の証人となられた皆様と神に感謝を申しあげます「ケネディ大統領暗殺」※の謎「ウォタ-ゲ-ト事件」の謎「田中角栄・ロッキ-ド事件」の謎など事件の真相を開明し「新型コロナウィルス」や「3・11 地震・津波」の解明と災害対策の提言を行い新たな地平を開きました。
※ 暗殺事件の謎は2039年までそれらの公式文書を一切封印して隠蔽されました。米国立公文書館にあります。
これらも書籍化したので映像のシリ-ズ物として残したいと思います。これで北杜夫先生的に言えば Godfather
作家 Don・Vito・Fumione(巨匠)として、多少人類の困難や謎を解く事が出来たのかな? との思いです。また次の森羅万象の謎・テ-マに向かって、大勢の読者の皆さんと楽しみながら歩んで参りましょう。よろしくです。
結論として、2011年3月に政府と朝日新聞に提言した震災復興案に対して、十年後の三月十一日(木)にこのような総括・社説が掲載されました。
概ね自分の提案は九割方理解され、採用されたと思う次第です。内容の細部についてはあくまでも住民自治が当然なので、結果において多少凸凹が生じるのは、やむをえない誤差の範囲内と思ってます。
いずれにしても、災害は逃れられず、前もって心の準備もインフラの整備も必須です。さらにどこまで備えれば良いんだ ? と言う議論もあり、いつも答えは未知数です。
しかし時代の進歩と人知の働きで多少の隘路はあっても、何時かは力学的な解決策に到達するものと思います。あくなき探究の道を進むしか有りません。
そんな意味でも、まだ提案中で未達成の「防災庁」の設置を新たなコロナ感染症対策も含めて重ねて提言する次第です。よろしくお願いします。
以上です。
『明日に架ける橋』(夢)を「かなえ大橋」
追伸:六日に気仙沼湾横断橋の「かなえ大橋」が開通したようで、おめでとうございます。これで約束のオリンピック年に間に合いましたね。これが宮城県の復興インフラのシンボルにもなり、訪れる観光客の方々に震災からの、復興物語やスト-リ-&エピソ-ドとしても組み込まれ語り継がれる事と思います。
◎私も24日(水)に渡ってみました。完成までに時間を要しましたが、出来て走ってみれば最高の気分でした。
とても良い観光名所がまた1つ増えましたね「かなえ大橋」がサンフランシスコのゴ-ルデンゲ-トブリッチ、そして「大島大橋」がニ-ヨュ-クのブルックリンブリッチと呼ばれるでしょう。そのためにも早く四車線化を目指し、出入口も全ての上下線で出来るようにしましょう。(同じ観光地として歌津北)も含めてです。
大急ぎで造ったのでちょっと不備な所もありますが、この高速道は私的には常磐道がまだ高萩市や北茨城市あたりを工事中に、三陸にも延長するよう各方面に働きかけ、さらに復興予算にもご理解頂き早期に実現しました。
そして三陸道が本吉・気仙沼地方及び岩手・八戸方面までの発展に寄与出来る事を心から嬉しく思う次第です。
◎ きっと、これからの三陸の発展・地方創生の要(かなめ)、その礎(いしづえ)の道路となります。ついに復旧 から復興そして再開発への段階にきました。皆さん大いに活用しさらなる発展を目指しましょう。私としては従来の産業構造にプラスする新たな研究開発を軸とした『三陸イノベ-ションコ-スト構想』※を推進します。
※ 宇宙物質研究の「リニアコライダ-」 ナノカ-ボン素材研究の「 宇宙Elevator」新食材研究の「代替蛋白 質」などの研究開発です。(ナノカ-ボン素材と代替タンパク質の研究はCo2削減SDGsの切り札になります)震災で失ったものを数えるのではなく、残っているものやこれから取り入れられるものを最大限に活かしましょう。
で、次は震災の悲しみと復興の栄光を後世に伝え残すためにも『タイタニック』のような映画を作るのが目標です。最後まで読了のこと、さらに感謝申しあげます。「かなえ大橋」が「三陸の夢をかなえる大橋」『明日に架ける橋』となりますよう祈ります。「橋を渡りながら願うと夢がかなう」と言う縁起の良い橋(新名所)です※
※橋を潜って出港するとき願うと無事に目的を果たし帰港できます。
◎ 3月29日(月)朝、旅行から五十年、これで『Don・Vito青春記』パートⅠの完結となりました。
「ショ-ほど素敵なものはない」 これから更にまた次の舞台・ステージに向かって参りまショ-!
震災の痛手は一朝一夕には消えません。しかし生ある自分は研究・創作で「世の光」になればと思う次第です