◎ 平成23年3・11からの復興プラン ◎
朝日新聞が募集した震災についての論文に応募することにしました。以下内容を転載します。
(2011年) 平成23年4月24日
【朝日新聞社】『ニッポン前へ委員会』主催
復興提言募集:応募/3・11日本列島改造論
東日本復興計画私案 仙台市 三浦二三男
〈はじめに〉
平成23年3月11日(木)午後2時46分に東日本をマグニチュード9の巨大地震が襲った。この未曾有の大災害から今回、新たにフィードバッグすべき、災害予防、防災対策は広範で深甚なものとなる。それは単なる従前の復旧ではなく、従来のコミュティーを基に新たな街作り、あらたな生産インフラの構築、また新しいライフスタイルを目指して、これから訪れる少子高齢化、過疎化にも対応し東北地方が全国に魁としてのモデルケースとなる復興計画でなければならない。
さらに、このたびの東日本大震災で判明したのは、想定をはるかに超える比類のない規模の大災害であった事である。従ってこれから論じる、災害対策や復興策はこれまでにない新たな視点と発想で構築され、そしてその復旧復興の暁には東北と日本の未来は、新たな技術革新による、豊かで安全安心な社会でなければならない。
【本論】
(1) 現状 〈発想の転換の必要性〉
(問題点)として「想定を超えた災害」
そこで、まず初めにかわらざるを得ないものとして、震災が発生してその初期の対応に不手際があった。その原因として問題となったのが、地震と津波が想像を遥かに超えた災害のため現地の状況、事情、情報が従来の防災システムでは速やかに把握出来なかった点にある。原因として〈A〉被災地が広範因に及んだこと〈B〉通信手段の不能、停電(電話、無線連絡)の設備が破壊された事、連絡網の壟断(行政組織の根本からの被災による消滅)、連絡手段の消滅(道路の崩落流出、港の破壊による海上運航の困難)上空からの連絡手段の未整備が上げられる。
(2) 改善点〈対処法としてあらたな装備の常設〉
これに対してこれからの設備の必要な物のとして(イ)通信手段の確保として避難所への衛星電話の常設、(ロ)それらの避難所を使用維持する電源車、浄水車、浴槽車、キャンピングカー、水上バイク、燃料車等、これからを空輸出来るヘリコプターを搭載することが出来る揚陸艦を三隻建造し北は北海道・東北用に塩釜に配備する、中央は関東・中部用に東京湾に係留する。南は関西・四国・九州用に大阪湾に係留する必要がある。
また、ヘリコプター等が使えない場合は落下傘部隊とレンジャー部隊でもって現地の現況をいち早く探索し報告する。将来的には人工衛星による探索と捜索も行う。
以上が基本的に変わらなければならないものである。
(3)復興の理念〈震災初年度から二年後のありかた〉
(中央政府に消防庁と併設して災害対策庁を設置)
(設立理由として)「近年の災害の頻発により」
これまで災害といえば火災、台風、洪水、雪害、地震と多くは局所的でその発生頻度もこれ程高くは無かった。しかし、近年、ゲリラ豪雨などの急激で大型の災害が頻繁に起きるようになって来た。また地球温暖化の進展も加速されて、本格的「災害対策庁」の設立も考慮しなければならない。
(対応策)として「救難隊の海外派遣・観光交流」など
これに対応して災害対策庁を設置し、頻発する災害に備える。また、近年諸外国でも大規模災害の発生が顕著で、お互いに救援隊を派遣している所である。当然世界的にグローバル化に向かうのは必然なので、防災資源を世界に向け集中することは将来的な投資にもなる。組織の有り方として、要員は消防庁、自衛隊、民間人を特別選抜して、災害の研究訓練を主な任務とする。
(研究・訓練項目)として
地震、津波、原子力関連、化学物質、バイオハザード、火災、自然災害等の本格的研究訓練機関とする。
設置場所として、今回災害の激甚地だった、気仙沼、南三陸周辺とし、この研究教訓施設を設置する事により、未来永劫、災害の教訓地として、防災意識の劣化、形骸化を戒めるものとする。
(観光・交流)として
また、いずれ、復興のための護岸ハイウェイを構築し、この度の災害で当地が世界的認知を得て各国から多大なる義援金や援助などを頂いたので、復興の暁には地震津波をテーマとした防災観光を企画し、全世界から観光客を誘致し三陸地方の資源、製品、海産物を一気に世界的ブランドにする。
「一例」として「豪華客船の石巻、金華山の定期的寄港」などが上げられる。
〈復旧・復興院を現地の最寄りの都市に設置する〉
(理由)
被災地を復興するには、直接被災現地の声を聞き、復興のビジョンを描かなければならない。なぜならば、被災地にとってこれから十年〜二十年間にわたり復興が、ライフワークになるので息の長い、根気のいる対応が必要になる。そのため短期的な復興支援では住民の反感を買う恐れるがあるので注意する必要がある。また、この復興対策が今後の日本の有事の際のモデルとなるので、必ず良い成果を上げなければならない。
そのさい新しい復興計画は技術革新をともない経済成長に貢献することが望ましい。復興院の設置場所は災害地の中心である仙台市に置く事を検討すべきである。
〈東日本災害復興特別財政投融資の発足〉
(理由)
復旧・復興資金は建設国債で賄うのが原則である。従って大規模な財政出動には財政投融資の復活が望ましい。
いずれ、郵便貯金の財政投融資の再開も考慮する必要がある。
〈仮設と復興住宅の有り方〉
仮設及び復興住宅は従来の平屋一戸建てだけでなく二階建て、場合によっては四階建の公団方式で建設し、復興後は他の地域からの人口流入、過疎化対策として入居者を呼び込むための施設とする。
〈被災地と自衛隊の有り方〉
今回の救援、救護の活動で最も成果を上げた組織は自衛隊であった。その中で今後の自衛隊の救援任務に一程度の行政機能の代替化も検討する必要がある。
(行政機能の代行)
例えば(A)南三陸町場合、職員の大量被災で役場機能の大幅な低下が発生した。その際、県や国からの取り急ぎの、支援金や補助金など、現金、公金の管理支給の実務の代行。(B)被災地における治安維持、この度の災害で警察など治安機能が壊滅した地域もあり、窃盗などの発生も見られた。これにも自衛隊の公安機能(内調)によるパトロール、取り締まりにも期待したい。
(C )今回の災害で顕著だった各地のガソリン不足のトラブルに付き、自衛隊の燃料車の活用が望まれた。特に被災者は現金持ち合わせが困難なので、役場または自衛隊から配給券を受け、ある程度の燃料を配給してもらう。
ある一定以上の使用者には、後日請求があることを通知する。
(救援物資の確保、配付)
救援物資の受け入れ、仕分管理をある程度、各自治体職員と共同して貰うのが望ましい。また、不足してる物資等をリアルタイムで把握し、自衛隊の兵站機能を活用して調達して貰う。つまり、物資不足も自衛隊に行けば手に入り、安心できるという体制が望ましい。
政府直轄の「生活相談の窓口」の代行
以上これらは自衛隊の災害時の臨時行政府の設置である。その命令系統は各司令部と被災自治隊の長と協議の上で遂行する。(法律改正が必要)〈地方自治法、自衛隊法〉など
〈ボランテアの有り方〉
日本のボランテア活動は阪神淡路大震災で、ほぼその産声をあげたと言われますが、それから十五年、この度の震災でも多大なる貢献を頂きました。ただ、その善意に感謝すると共に、その各たる財政支援も図る必要がある。もとより、ボランテアではありますが、継続して被災地に応援を頂くなら、NPOを含め多少のホローも必要です。そこで、あくまで(NGO)と言うことで、その資金的調達法として、グラミン銀行や企業の社会的貢献の資金CSRを活用するのが望ましい。
(4)復興にむけて〈復興される新しい街並の有り方〉
(三陸自動車道と鉄道路線の最大限の活用)
新しい市街地及び街並みの有り方を再検討しなければならない。今回の地震津波災害がより深刻だったのは、生活基盤である住宅地の喪失、生産インフラの破壊、そして避難行動の遅延による人命的損失が甚大だったことである。これらは過去にあった地震、津波(明治29,昭和8年)の教訓から法律により、かつての被災地には家屋や住宅の建設は禁止されていたが、時間と共に形骸化され建築した建物が今回流出し、また、避難所にたどり着く前に大勢の犠牲者を出してしまった。
三陸地方のライフスタイル、生産形態として沿岸部をフル活用してきた経緯がある、そのため海岸地とは付則不離の状態で生活をしてきた。今後も三陸地方を復活するためには、海辺から離れて暮らすのは現実的でない。
以上、復興、復活にはこれらの諸条件を加味して計画立案しなければならない。
(新しいライフライン、インフラ導入)の必要性
従ってこれから復興される街並み、生産インフラはなるべく現地に復旧されることなく、新しい発想と新しい土地に再建されなければならない。
そのためのサンプルとして二つの例をあげ検証してみたい。
〈南三陸町ケース〉
(新しい市街区の選定)
例えば南三陸のケースとして、この地は所謂、典型的なリアス式海岸である。そのため、海岸線はほぼ溺谷状に山が海に迫っている、従って陸地の平野部が少なく、多くの住民は狭い平場に住宅、生産インフラ、農地と効率良く配置、展開して生活していた。しかし、この度の千年に一度と言われる大地震、大津波でその資産の多くを喪失した。そこで、これから再構築する市街地、住宅居住空間はこれまでの被災地に再構築するのではなく、これまでよりも標高のある丘陵地に再構築する必要がある。
その例として、南三陸町、歌津地区はこれから開通する予定の三陸自動車道の沿道にその市街地を展開するほうが将来的だ。ちょうど、今現在開通工事を目指している高速道路は現在の国道45号線と並行するよう沿岸部を北に向かい、気仙沼市、岩手県大船渡市、釜石市を目指して北上する。従ってこの「歌津・新ハイウェイタウン構想」は被災地全域、岩手県、青森県まで応用出来るモデルである。具体的にはまず、条件的に現在の歌津地区を南北に貫く高速道路は、標高も30メートル近くのやや高地を走るので、津波の危険性はない、それは今回の災害で実証済である。その形態としては、高速道路を挟んで西側には役場、学校などの行政機能を設置する。また、東側の海側には、水産加工場、農地、住宅街を段丘方式に造成し津波被害から避難しやすいように設計する。さらに三陸道はこれからほとんどの区間で無料化になるでETCも料金所も不用になり、どの地点からも出入り可能となるので、ちょうどサービスエリアの延長線上に街を造ると言う発想で市街化計画が出来る。さらにそれらに附随して、旅館、ホテル、温泉場やキャンピングカーの駐車場が有ると、災害時の避難所や仮設住宅の設置場所としての転用が容易となる。また、独自、エネルギーの確保して田束山腹に風力発電機を設置し夜の余剰電力を登米市の北上川から歌津ダムに揚水し、発電してスマートグリッドに役立てるべきである。
〈名取市・閖上ケース〉
名取市閖上の復興の場合も高速東部道路の沿線に構築する必要がある。旧閖上地区は今回の災害で、とても旧来の地に復旧、復興は無理と思われる。そこで、現在ある貞山掘り運河の景観は残し、その西側の旧市街地跡に高さ20メートル程の緩やかな「砂丘林」を築き、その上に道路を通し護岸道にして貞山掘と共に、観光ハイウェイとする。ここにも風力発電を設置し「地産地消電力」スマートグリッドを実現する。また、今後も閖上の港と水産加工場の機能は残しても、居住地は東部道路の西側に移すべきと思われる。
その一つの構想として、現在ある東部道路の名取川大橋に架かる橋梁に附随してサービスエリアを建設し、その後方に市街地、住宅地を造ることを提案する。また、漁船が海から川を上り橋の上のサービスエリア上の海鮮市場に水揚げして、常磐道を利用する観光客への「笹かま鉾」などの名産品、土産品の目玉商品を提供する場としする。現地は太平洋と仙台市街が見渡せる景観の良好な所なので、サービスエリアを設けると観光的には絶景なスポットにもなる。
以上、南三陸歌津地区と名取市閖上地区をモデルに街並み、その他の復興計画を提案しました。歌津地区のモデルは岩手、青森の沿岸部の多くに応用可能かと思われ、また、名取市閖上地区のモデルは亘理町、山元町、相馬市、常磐地方に応用可能か思われる。また、今回の津波で判明したのは高速三陸道、東部道路などの高架部分が津波の勢いを減衰させた点である。特に仙台平野は三陸道のルートが偶然にも「貞観の津波」の際の到達点にほぼ作られたので、その高架と土盛りの部分が内陸部の最後の防波堤になったと言える。これからの津波防災の目安としてこの高速道が基準と成りうる。ここでも高速道路の東側は農地や工場などの生産インフラを置く事が望ましい。また、先に上げた閖上の高さ20メートルの「砂丘林」モデルを仙台港から亘理までの貞山掘運河沿いに構築し、また今回被災した沿岸部の県道(塩釜〜亘理線)をかさ上げすればその生産インフラは、被災以前のレベル以上で活用することが出来る。
以上の発想を速みやかに実現するするには、土地の所有権の移動など、超法規的な買い上げ、多少の強制執行などの処置が必要となるので、事前の法的準備が必要である。いずれにしても地元住民への丁寧なコンセンサス作りは重要である。
(5)未来に向かって〈特論として原発科学事故対策研究部隊の創設〉
ここで取り上げるの問題は、この度の災害は三陸の地震津波と共に国民の不安を一層増幅させた福島原発の事故のことで、これは従来の自然災害を想定していた準備や装備では解決出来ないという、かつて経験したことのない無力感を日本中にもたらした。
その不安はこの次に想定される東海地震に伴う、浜岡原発の故障、暴走を連想させ、国民を一層の不安と絶望感の淵に追い込んだ。さらに失望感に拍車をかけたのが、当事者である電力会社のその驚くほどの責任感の無さと、問題解決能力の欠如だった。これは十数年前のオウム真理教事件を思わせる、暴走する科学に対する恐怖と嫌悪感を呼び起こした。そこで、これらを恒常的に解決する能力が国家に備わっていなければならない。この問題は(3)の理念〈災害庁の創設〉で上げた中で改めて特論として、原発の事故対策研究部隊の創設を提案するものである。
(6)十年後、五十年後、百年後三陸地方のビジョン〈海洋ニューディール政策の構想〉
新しい産業インフラの構築としての海洋ニューディール政策の発足。
復興後十年までには被災以前のライフスタイルを回復しなければならないが、多くの犠牲者と高齢化、少子化で復興の進捗状況は停滞期に入ると思われる。そこで従来の三陸地方の特徴的生産形態、典型的生産形態であり、また、ブランドでもある豊かな漁業資源と旺盛な水産加工業を中心に新たに三陸地方を水産加工のコンビナートにするべきである。
さらに次の10年から20年の発展を目指すために「海洋ニューディール政策」の発祥の地になる必要がある。
これは水産資源、海洋資源、海底資源など日本はいまや排他的経済水域の広さにおいては世界四位の地位にあり資源大国である。この「海洋ニューディール政策」はこれから50〜100年後には必ず日本が進むべき必然の進路であり、これこそが次の国際的競走社会で生き延びるための「奥の手」とも言える。その先遣的研究所などのインフラをこの度の被災地、気仙沼市、南三陸町に設置し開始する必要がある。なぜなら、海洋資源の開発にはまだ各国の軋轢等もあるで、それをこの三陸の被災地から「復興のために」と発信すれば多くの理解を得ることが出来る。
以上、これはまた、新たな経済再生政策なので具体的内容は紙数の関係で割愛します。〈別途、改めて〉です。
むすびとして
以上、これまで(1)の現状〈発想の転換必要性〉(2)の改善点〈対処法としての新たな装備の常設〉(3)復興の理念〈震災初年から二年後の有り方〉などで今回の震災からフィードバックした命題に基づいてこれまでの防災対策の不備、不充分な点を論じてきました。また、(4)の復興に向かって〈新しい街並の有り方〉(5)未来に向かって〈特論として原発科学事故研究部隊の創設〉(6)の十年後〜百年後の三陸地方のビジョン〈海洋ニューディール政策の発足〉で新しい技術革新(イノベーション)による復興の設備投資が日本の経済発展にとっていかに寄与するかを述べてきました。また、今回の震災は大変なダメージでしたが、これを機会に新たなこの国の再構築の先行モデルとして役立てるものと確信しています。
さらに付け加えて、これらの設備や再構築の方策が次の東海、東南海地震や地球温暖化による海浸防護・護岸対策にも役立つものです。以上、最後まで読了有難う御座いました。
略歴
東北大院修了 旧郵政事務官・作家・映像ディレクタ-・映画プロデュ-サ-・経済学・バイオ技術研究者
著書:小説 『風に吹かれて』『JFK ダブルスティツ』『田中角栄・野武士の時代』など 57才
2021年3月1日 ☆ 地震学(プレ-トテクトニクス理論)のこと
今月の11日で震災から十年です。このコロナ禍も含め、人の命や運命なども考えさせられる歳月でした。津波では多くのいとこ友人知人を失いました。
まだ、忘れることはおろか整理もついて居ません。
五学級のとき、担任の佐々木朗先生から「実はチリ津波で流された子供がまだ見つからないんだ」と打ち明けられ驚きました。
津波から八年たっていました。その時''ああ、先生はまだ探しているんだぁ,,と思い人生経験の浅い自分には重い教訓になりました。
その話をある人に何度も話ていましたが、3・11前にもそんな会話をして「探しに行かないからね」などと冗談めかしていましたが、直後にあの地震となり、複雑な思いを抱え込みました。
防災庁舎に居た二人の従兄弟と、志津川病院に入院してた 初恋の人のお母さんは、今だに見つかって居ません。本当に「どこに行ったんだろう」との思いです。
行方不明な従兄の一人は東北学院を出て「役所勤めなんか真っ平」とか言って少し離れた所に就職しましたが、結婚してやむなく地元に戻り入りました。その事は祖父母をとても喜ばせました。
そして、定年まであと20日という時に遭難しました。なんでも、総務課の金庫の鍵の扱いが決まってなくて親しい高校の後輩と話合ってたとの目撃証言です。その後輩というのが健(五学級)の長男でとても良い子でした。従兄は歳が私の三つ上でしたが、何故か疎遠でむしろ兄と仲が良かったです、気が合ったのでしょうか※
ただ、亡くなる一年半位前にファミリーの祝い事、姪の結婚式があり、その時、三時間位、じっくり話ました。その頃わたしが戦死した眞一伯父の経緯を調べていて、靖国神社や県庁の戦死者名簿の不備などがあり、母の実家の当主だった彼に、それらの史料を伝え渡すためでした。
するととても喜んでくれて、初めていとこらしい会話をした思いでした。その様子を見ていた姉が「珍しく二人で話込んでいたね」とやはり意外だったようです。運命のようでした。式場で讃美歌を歌わされたときも偶然近くにいて「昔習ったお陰で口パクでなくて良かったね」などと妙に話が合いました。
※しかし二人とも祖父譲りでB型だと気にしてました(笑)「へェ-それは良かったね、祖父と同じで光栄だね」と私が言うと、さらにもう一人役場に行ってるB型の従弟と三人で複雑雑な顔をしてました。私にしてみれば母もB型なので違和感は無かったので、可笑しくも不思議でした(笑) ちなみに私はA型です。(個人情報)です。
その時の四方山話に「何になろうとしてたの」とあらためて聞くと「教職を取って先生になろうとしてた」と聞きとても驚きました。噂では''自分の父が先生なので教職は嫌だ,,とか言ってると聞かされていたので、とても意外でした。確かに勉強家なので性格は先生に向いていたかも知れません?
私は勉強をしたことがないので皆さんの思い通り「絶対」に有り得なかったです、ハイ。ただ、この結婚式のあとに自分の著書『J・F・Kタブルスティツ』を贈ると「従兄弟達の中から作家が出てとても名誉で嬉しい」と、丁寧なお礼の手紙をもらいました。''これですでに亡くなった祖父母も喜んでくれるな,,と密かに思いました。
で、この従兄と昨年の九月に書いた『ブックエンドのテ-マ』での生家の分家「向の妻」の当主、三浦毅氏は更にいとこになります。二人ともこのように防災庁舎で行方不明になりました。我が家の複雑な姻戚関係の一端です。母方の従兄弟(従姉妹)だけでも二十人いました。早く家族のもとに帰ってくるよう祈ります。
それで次に先月13日にあった地震からです。そもそも地震の事はライフワークのようなものです。バイオの次に古いです。ちなみに何故バイオかと言うと例の生家の西ノ曲輪「出の妻」に樹齢八百年越の松の木があったからです。屋敷の左右「東西ノ曲輪」に五郡松「こごうりのまつ」と言って敷地に五本づつ松を植えたそうです。
鎌倉から移り住む時に植えられたようです。それでも「東ノ曲輪」の五本は塩害で何度か植え代えられたそうで、あまり樹勢が良くなく迫力はなかったのですが、反対に「西ノ曲輪」の五本うちの一本は直径が二メ-トル近くありました。さらに根本から上、十メ-トル位から三つ又に別れる珍しい黒の笠松でした。
それはもう見事な松の大木でした。ちょうど伊里前の西光寺の「サワラの木」のよりもちょっと太い、みごとな品格のある松の木でした。しかし、これが私の小学に入学する二年前の春に伐採されました。その最後に大地に倒れた時のさまが、大迫力でまるで地震のように地響きして「出の妻」が揺れました。
この前後、切られた松木の根元を通りながら、いよいよ入学で、するとこの自由な空間(出の妻)に居れなくなる事、さらに宇宙のはての事や植物(松)を通じて(生命)の事を考えてました。
更にその二年後にチリ津波が来たのです。このとき佐々木朗先生は志津川で娘さんを流されて亡くしたのです。そして大森先生は自分が住んでた「廻館」の大森城の石垣の上から津波が押し寄せるのを見ていた、と授業のとき何度か話してましたよね。佐々木先生のお嬢さんは私達と同い年だそうです。
ここから九年後、わたし達が修学旅行で東京に行ってきた一ヶ月後、五月十六日に十勝沖地震が起きました。この時初めて大森先生から地震のメカニズムを教わりました。この時も、すぐ津波が来て二階の十二学級の出窓にトシさん達とよじ登り、伊里前湾の第二堤防を海水が越えナイアガラの滝のように落ちる様を見てました。
ちょうどこの日、善昭氏が休みで海に出てるはずと思い随分と心配しました。前日に「明日海に行くので休む」と言ってたからです。しかし、次の日、無事に出て来て心配してた旨を伝えると「それよりもあと十日でそなたの誕生日ださ」と言われ「えっ」となり自分の誕生日が二十六日なのを忘れてました。
反対に自分より彼のほうが誕生日を覚えてた事に、とても感謝したのでした。華の歌中でワイルドな青春を過ごしてました(笑う) そしてこの日の帰りのホ-ムル-ムまでには津波騒ぎも小康を得て、先生が地震のメカニズムについて説明しました。わたしは「よっ、待ってました」とばかりに身を乗り出して、ご拝聴致しました。
それによると「地震と津波の原理は、まず、地震は海底下の地層に石灰層があり、そこに永年にわたり海水が浸み込み、やがて鍾乳洞の空間が出来、いずれ海底と海水の重さで崩落して地震が起き、その新しく出来た窪地に落ちた水が溢れて津波になる」との理論でした。先生の教へです。フムフム、疑う余地なし。私は信じました。
しかし、Not only but also and etc. 高校での物理の時間のことでした。本当いうと、当時はまだ地震のメカニズムは不明とされていた時期でした。まっ、今でも必ずしも確定してるとは言えないですが・・・たまたま地震のメカニズムの話になり、わたしは中学で習った前述の大森理論を臆面もなく披瀝しました(笑う)
すると斜め前あたりからボソッと「ちがうよ、今はプレ-トテクトニクス理論といって、海底の岩盤プレ-トが動くと言う仮説が出て来てるよ」と、のたまうではありませんか。誰かと思いきや、時々、数学で百点取って「やった やった」と両手をあげてガッツポーズをするのが有名な、某階上中のカッチンじゃありませんか。
ちなみにあとで何故「カッチン」なの、と''ある人''にたずねると、本来はカッチでカッチンは変化バ-ジョンのようでした。なんでも子供のころの「テレビ漫画の主人公から来てる」との話でした。(個人情報)です。
と言う訳で早速、私は図書館に駆け込み調べたのですが、有りませんでした。カッチン恐るべしです。どこで知ったんでしょう。そこから、私の「プレ-トテクトニクス」の密かな研究が始まるわけです。ただし、この時点で、自分の不明を恥じる必要はなく、高校の地学にプレ-ト理論が初めて載ったのが1974年だそうです。
まさに後学の事となってしまいました。そんな密かな研究の中で起きたのが1978年6月12日の「宮城県沖地震」でした。しかし、このときもプレ-ト理論に触れらることは一切有りませんでしたが、自分としては間違いないと確信が進みました。(この時の約40年周期の地震の存在は以前からある程度想定されてたようでした)
そしてこの度の3・11も40年周期の「宮城県沖地震」をタ-ゲットに警戒しておりました。そのため揺れ方もせいぜい30秒から1分と思い、ベランダの太い柱にしがみ付き辛抱してましたが、なんと3分に達する長い揺れで想像を遥かに越えました。さらに震源の深さが約24Kmで、宮城県沖の40~60Kmの約半分の深度です※
※ 従って、当地域はまだ揺れ残ってる可能性があり、改めて40年周期の「宮城県沖地震」にも注意が必要です。この揺れが後に述べる「海嶺」や「海山」のなごりがプレ-ト境界(摩擦面)の中程、途中に引っ掛ってる「固着域」の可能性があるからです。
そして時間をかけて研究し、この地震津波が「プレ-トテクトニクス理論」由来である事が、自分の中で確定しました。しかし、気象庁もマスコミもその名称には一度も触れないです。しかし、解析では上の写真のような説明をしています。あれこそがプレ-ト理論そのもなのです。そして次に予知についてです。
しかし、ここまで来ても予知は今だ実現しません。それでもプレ-トの数や動く方向がある程度判明してきたので、とくに日本海溝付近の揺れのモデル、手掛かりはつかめるかも知れません。それには、事前に探査しなければならない事項もあるのです。それが前述の「海山」の存在です。以下説明致します。
まず、日本列島が載っかてるプレ-トはよく言われる、ユ-ラシアプレ-ト、太平洋プレ-ト、北米プレ-ト、フィリピン海プレ-トの4つで、この内、三陸に関わり影響を及ぼすプレ-トは北米プレ-トと太平洋プレ-トです。基本的に地球はまだ若くて球体そのものが成長途上で膨張中なのです。その証拠が火山の造山運動です。
とりわけ太平洋プレ-トは米国のカリホルニア沖で誕生し、西に向かい年間約10Cm移動し、日本列島を目指して西進します※その海底火山が太平洋の途中で海面に顔を出したのがハワイ諸島です。この海底の地殻が動く事を「プレ-トテクトニクス理論」と言ます。よってハワイ諸島はやがて日本と繋がり列島の一部になります。
※ 反対に東進するのがカリホルニアのサンアンドレアス断層で、サンフランシスコ地震に影響を与えてます。
こうして日本列島に押し寄せた太平洋プレ-トは北海道や東北地方が載っかてる北米プレ-トに乗り上げるのではなく、海側のプレ-トは重いので下に潜り込みます。このとき出来たのが日本海溝でプレ-トとプレ-トの境目です。ものすごいプッレシャ-を地殻にあたえ海面から一万mも海底を凹ませて(トラフ)溝を造っています。
列島の東から押し寄せる太平洋プレ-トにぶつかられて上下にすれ違った地殻の上方、北米プレ-トは大体1m位まで下方にメ繰られ、引き摺り込まれる歪みのストレスに耐えられますが、約千年単位でその不自然な態勢を、土の安息角を求めて一気に解消しようとします。それが今回のような千年に一度の大地震です※
※ただし、その途中に40年及び400年に一度位にも蓄積した歪みを解消するため地震を起こす「固着域」(地震の巣)があります。上図の先月二月十三日の福島県沖の地震もそのメカニズムの可能性ありです。
そのため予知をするには地殻の歪みの溜まる時間と速度の(積分)Aと、地殻が載る列島地域のプレ-トの重さBとプレ-トの接地面が解放する摩擦係数(微分)Cが解り、更に潮汐の周期と出来ればマグマの動きが分れば、ある程度の計算が出来て何時発生するか分かります。しかしこのCの摩擦係数で隠れてる探査事項があるのです※
※それが例えば先ほどのハワイ諸島や伊豆・小笠原群島などの海底に潜んでいる「海山x」です。太平洋の海底は必ずしも平板ではなく海嶺や海山で凸凹になってます。少し大げさに言えば、富士山の山頂が、日本列島の下のプレ-トにゴリゴリと潜り込んでると、イメ-ジして頂くと分かりやすいです※
※(ただし伊豆半島は潜り込まず列島に接地して陸を押あげ富士山を重さ1兆1500億tまで成長させている)
実はこの海山が陸側のプレ-トの下に潜り込んでいる事に誰も気が付いて居ないのです。ただ、その現象の根拠はあります※1 それが「固着域滑り」で時々急激な地震でストレスを解消しているのがそうです。一方「スロ-スリップ」※2は数ヶ月かけて滑り面の摩擦エネルギーを解放していて大地震の前には此方が先に滑ってます。
※1 日本列島の太平洋側の海溝地図を丹念に見るとかつての島が半分まで潜り込んだ海山の痕跡が見られます。
※2「スロ-スリップ」とはプレ-トどうしが固着せず、普通に上下にすれ違っている所に海水が潤滑油の作用をしてゆっくり動いている接点です。最近判明しました。固着域と並びこれからの研究が待たれるところです。
注:スロ-スリップ=「ゆっくり滑り」のこと
従ってこれら(仮説)の、数理モデルを成立させるには、どうしてもこの「海嶺」や「海山」由来の(地震の巣)
「固着域」Aを徹底的に探査する必要があります。(Bの重さの単位は大きくなりますがスパコンで計算可能です)
A=
a=1年 b=1000年 B=t=Kt C=微分≒μ=tanθ D=潮汐の周期=365日 E=マグマの動き?
y=固着域硬度数=HRC
これらの式から二次関数的に経済学で用いる限界効用曲線で地震発生時x=AF(界面破壊)の地震予知が出来ます。ただ、Aは仮定数を入れ、マグマの動きは ? で算入せず、残りの算式でぜひ一緒に式を完成してみませんか。
あとAは定積分を使わず、普通に四則演算・加減乗除でも算出できるかも知れません。積分の記号式インテグラはワ-ドで探せなく、PDFなので小さくなりません。例によってSの文字がコンピュータが斜め上に行けないためらしいです(笑)。
また、Cも微分を使わず普通に固着する斜面面積と(海山の頂)の変数が分かれば摩擦係数でも可能かと思われます。式を難しそうにしないと、それらしく思われず科学的でないと言う、この世界の方々、秀才さん達へのオマ-ジュです。ご理解下さい。
こうして震災から十年と言うことで、以下の経緯となり、これが私の十代から探究して来た地震のメカニズムに関連する一連の出来事のひと括りの結論となったようです。さらにCOVID-19ウィルスによるバイオ関連の事も合わせて,これまで研究して来た※「答えの無い未知な学問」に、ここに来て(仮説)でも大結論が出せました。
※ 十年前に『Don・Vito青春記』の「歌中卒業」時を描いた以下の文書を敷衍した形になりました。
しかし、そこにはこれまでの日々の研究から想定していた、真の「歌中魂」が必要とされる、乗り越えなければ成らない国難と、新たな時代が待っていました。『日はまた昇る Never Give Up』です。
◎ その巡り合わせを根気よく読了くださり、歴史の証人となられた皆様と神に感謝を申しあげます「ケネディ大統領暗殺」※の謎「ウォタ-ゲ-ト事件」の謎「田中角栄・ロッキ-ド事件」の謎など事件の真相を開明し「新型コロナウィルス」や「3・11 地震・津波」の解明と災害対策の提言を行い新たな地平を開きました。
※ 暗殺事件の謎は2039年までそれらの公式文書を一切封印して隠蔽されました。米国立公文書館にあります。
これらも書籍化したので映像のシリ-ズ物として残したいと思います。これで北杜夫先生的に言えば Godfather
作家 Don・Vito・Fumione(巨匠)として、多少人類の困難や謎を解く事が出来たのかな? との思いです。また次の森羅万象の謎・テ-マに向かって、大勢の読者の皆さんと楽しみながら歩んで参りましょう。よろしくです。
結論として、2011年3月に政府と朝日新聞に提言した震災復興案に対して、十年後の三月十一日(木)にこのような総括・社説が掲載されました。
概ね自分の提案は九割方理解され、採用されたと思う次第です。内容の細部についてはあくまでも住民自治が当然なので、結果において多少凸凹が生じるのは、やむをえない誤差の範囲内と思ってます。
いずれにしても、災害は逃れられず、前もって心の準備もインフラの整備も必須です。さらにどこまで備えれば良いんだ ? と言う議論もあり、いつも答えは未知数です。
しかし時代の進歩と人知の働きで多少の隘路はあっても、何時かは力学的な解決策に到達するものと思います。あくなき探究の道を進むしか有りません。
そんな意味でも、まだ提案中で未達成の「防災庁」の設置を新たなコロナ感染症対策も含めて重ねて提言する次第です。よろしくお願いします。
以上です。
『明日に架ける橋』(夢)を「かなえ大橋」
追伸:六日に気仙沼湾横断橋の「かなえ大橋」が開通したようで、おめでとうございます。これで約束のオリンピック年に間に合いましたね。これが宮城県の復興インフラのシンボルにもなり、訪れる観光客の方々に震災からの、復興物語やスト-リ-&エピソ-ドとしても組み込まれ語り継がれる事と思います。
◎私も24日(水)に渡ってみました。完成までに時間を要しましたが、出来て走ってみれば最高の気分でした。
とても良い観光名所がまた1つ増えましたね「かなえ大橋」がサンフランシスコのゴ-ルデンゲ-トブリッチ、そして「大島大橋」がニ-ヨュ-クのブルックリンブリッチと呼ばれるでしょう。そのためにも早く四車線化を目指し、出入口も全ての上下線で出来るようにしましょう。(同じ観光地として歌津北)も含めてです。
大急ぎで造ったのでちょっと不備な所もありますが、この高速道は私的には常磐道がまだ高萩市や北茨城市あたりを工事中に、三陸にも延長するよう各方面に働きかけ、さらに復興予算にもご理解頂き早期に実現しました。
そして三陸道が本吉・気仙沼地方及び岩手・八戸方面までの発展に寄与出来る事を心から嬉しく思う次第です。
◎ きっと、これからの三陸の発展・地方創生の要(かなめ)、その礎(いしづえ)の道路となります。ついに復旧 から復興そして再開発への段階にきました。皆さん大いに活用しさらなる発展を目指しましょう。私としては従来の産業構造にプラスする新たな研究開発を軸とした『三陸イノベ-ションコ-スト構想』※を推進します。
※ 宇宙物質研究の「リニアコライダ-」 ナノカ-ボン素材研究の「 宇宙Elevator」新食材研究の「代替蛋白 質」などの研究開発です。(ナノカ-ボン素材と代替タンパク質の研究はCo2削減SDGsの切り札になります)震災で失ったものを数えるのではなく、残っているものやこれから取り入れられるものを最大限に活かしましょう。
で、次は震災の悲しみと復興の栄光を後世に伝え残すためにも『タイタニック』のような映画を作るのが目標です。最後まで読了のこと、さらに感謝申しあげます。「かなえ大橋」が「三陸の夢をかなえる大橋」『明日に架ける橋』となりますよう祈ります。「橋を渡りながら願うと夢がかなう」と言う縁起の良い橋(新名所)です※
※橋を潜って出港するとき願うと無事に目的を果たし帰港できます。
◎ 3月29日(月)朝、旅行から五十年、これで『Don・Vito青春記』パートⅠの完結となりました。
「ショ-ほど素敵なものはない」 これから更にまた次の舞台・ステージに向かって参りまショ-!
震災の痛手は一朝一夕には消えません。しかし生ある自分は研究・創作で「世の光」になればと思う次第です。