☆ 作家三浦二三男と歌津魚竜の発見から始まる研究のアーカイブ ☆
2024年8月ラテン語名【パシリカス・ナオヤイ】
発見者は東北大学総合学術博物館 永広昌之名誉教授
研究補助者・高橋直哉氏(歌津出身)の名前から学名
【パシリカス・ナオヤイ】とラテン語名を付与された嚢頭類新種の化石。
2015年に東北大学永広昌之教授が発掘した新種の襃頭類の発見にちなむシンポジウムが2024年1月にあり、それに関連して新たな「地層ケーキ」を考案した歌中生の活動を紹介した記事。
2021年5月26日河北新報より
写真は歌津魚竜の子供向けの講座が先月26日にあったそうなので、取り上げてみました。なんでも『五月の初めに歌津で化石発掘体験イベントを開いたら、当初2日間の予定でしたが、予想以上の申し込みで急きょ5日間に拡大。県内外から親子連れなど計約百人が参加し、約二億五千万年前の地層で化石をさがした』
そして『化石が見つかるたび、うれしそうに歓声をあげた』とあり、この化石を発見・発掘するさい立ち合っていた自分は当時高二の秋でした。大森先生からこの地層の世界的な重用性を教えられてたので「いつかは何か出て来くるだろうなぁ」と漠然とした想いが実現したのは、感無量でした。いつまでも昨日の出来事のようです。
という訳でさらに次の世代が関心持ってくれるのは嬉しいです。これから、観光や研究の意味でも中学生や高校生のサマースク-ルなどを開催し、そんな中から将来、研究者でも出てくれたら我が歌津と南三陸町、世界の名誉です。是非、心から願う次第です。どうぞ、検討のほどをよろしくです。会場には「平成の森」があります。
2015年9月23日の河北新報に歌津の2億5千万年前の地層から「囊頭類の化石」と載っていました。国内初で、またまた学術上や観光上で「歌津が輝く」発見が有りました。
私の「脇香菌抗生物質類の発見」以来の快挙で神に感謝です。
そもそも地層に興味を持ったのは、あの開口のお陰でした。真冬も真夏も夜中の3時半に起こされ、あわびやワカメを獲りに行くのです。小学三年から兄が獲師で、私が櫂押しで舵取りです。
三陸でも最も波の荒い馬場の海です。それでも凪の時は眠気を催すほどになりました。そんな時は櫂を押しながら、陸側の黒く峨峨とそびえるリアス式海岸の風景を海上から眺め、あの地層の成り立ちの事を考えていました。
リアス式海岸の事は小学の教科書に載ってますので、概要は知っていました。それを直に毎日見ている訳です。そんななか、中学1年の科学の授業で大森先生が「あの黒く固い粘板岩は地球上でとても古くて、世界の学者も注目で学術上重要なのだ」と教えてくれました。
今回、その歌中の教室の窓越しに私達が朝夕眺めた伊里前沖の唐島から「囊頭類」の化石が発見されました。
「囊頭類」というのは頭が袋状になっている小さな虫で、現代でいうミジンコを大きくしたような生物です。オキアミに近い類なのかどうか・・・?ですが、きっと当時の歌津魚竜などの食物連鎖で餌となり、多様で豊かな三陸の海の生態系を構成していたものと思われます。これからも益々新種の発見なども続くはずです。
◎ここで「小結論」として、当時の歌津はパンゲア中でユーラシア大陸の一部でしたが、中緯度からあまり遠く外れなったので、温暖な気候が長期間にわたって続いた事により、多様な古生物が繁殖する事が出来て、後に化石となり残りました。
これが私の長い間の研究から得た結論です。(必ず試験に出ます)(笑)
(この説は私のオリジナルです。多くの方に支持されることを願っております)
かさねてのハイライトは「数億年前に地球上の大陸が四方八方に移動した」という壮大なスケールの物語の名残が、あの歌津の地層郡だった事です。現地に立って詳しく観察すると「大陸創生過程の雄大な太古のドラマ」に引き込まれます。
「古えが有って今が有る」きっと現代の地方創生の物語につながるものと思います。
テーマは書き始めると延々とエンドレスになってしまうので、地層や化石、恐竜などが好きで興味のある方は、ぜひ、歌津をフィールドワークに訪れて下さい。今から始めてもここは古生物学のメッカでありフロンテァなので、将来的に大学者になれる事を請負います(笑)
やはり歌津は「日はまた昇る・ネバーギブアップ」のフロンティア スピリッツ「開拓者魂」が似合う所だとつくずく思います。
いずれ、ここはジオパークの中心地なので、世界中から研究者が集える施設なども整えられたらと思います。
それには化石研究家や地層女子「地女子」なども現れてくれると嬉しい次第です。長くなりますので、ひとまず一旦ここで・了とさせて頂きます。
ネットのカリスマDon・Vito・Fumioneがお送りしました。 ナョナルジオグラフィックス
2012年6月2日・東北大学理学部で作家の北杜夫展が開かれ斎藤由香さん(歌人の斎藤茂吉の孫・北杜夫の娘さんと奥様)が来仙して記念講演をしたとき、理学部に行き、記念写真と博物館内の歌津魚竜の展示を写す。
いきさつ
本日、理学部まで行くことになり、久しぶりに高校の時に発掘に立ち会った、本物の歌津魚竜の化石とご対面して来ました。
きっかけは先月28日から始まった「どくとるマンボウ昆虫展」が東北大学で開催されており、本日は斎藤由香さんと故北杜夫さんの奥様が、講演会で来仙することになったからです。
場所は青葉山の理学部のミュージアムに昆虫展が開設され、午後一時から理学部の一番広い講義室で、満員の聴衆のなかで行われました。
この昆虫展を企画プロデュースをしてくれたのは、新部さんという栃木県職員の方ですが、私以上に北さんのファンでかつ、昆虫の専門家でもあります。
彼と出会ったのは3年ほど前、新部さんが仙台文学館で北杜夫展を開催し、その時お互い北さんの消息話になり、ぜひ北さんが生きている間に、このようなイベントに出て来てくれるように、働きかけようというのが始まりでした。
2006年7月に国内最古の両性類の化石の発見があり、東北大学理学部で行われたポスターセッション。右が東京大学院生で化石の発見者の中島保寿さん、左の後ろ向きで半身の人物が筆者三浦二三男。
中島さんは現在、首都大学東京の準教授です。
国内最古の両性類化石の発見
場所:歌津伊里前湾 唐島
発見者:中島保寿 東京大学大学院古生物学研究生
【中学高校での研究プロジェクトの足跡】
1968年歌中三年生の夏休みの研究テーマが三つあり、一つ目がタコを獲ってきて手のイボを治すことでした。
理由として右手の甲に薄い水イボがあり(夏休み明けに体育祭がありフォークダンスでJ子さんと手をつながねばならず)イボがあるのを知られるが嫌だった。
それで一日一杯、三日間で三杯の真蛸を獲り、毎日蛸の茹汁で手を洗うと、夏休み明け前にはイボが消滅していました。田ノ浦の祖母から聞いた古い民間療法を試しましたが正解でした。
これで中三にして初めて自分をモルモットにした医療的実証実験でしたが、良好な成功体験となり科学者的マインドを得る事が出来ました。
と、喜んでいると今度は夏休みに入る三日前に、友人の柔道着を着てワキガになり、別の悩みを抱えました。
この治療実験は二十歳過までかかりましたが、これも様々な実験の結果、東北大学の力も借りてワキガ消臭剤
「君香デオドラント」の開発につながり、多くの悩める方々の救いになりました。これらイボや腋臭菌の研究が進み、やがて「感染症」を深く理解出来て、この度の同じ感染症のコロナ19でもその対策に貢献出来ました。
二つ目が黒くかつ峨峨と聳える歌津の海岸線の粘板岩の調査でした。そのときのフィールドに選らんだのが馬場の野々下でした。オゲズバ(オーゲ釣場)の崎を右に曲がり野々下の東向きの崖によじ登り、マグマの貫入の境目を観察中にポロリと、うずらの卵状の玄武岩の球石を発見して、後にこれにより玄昌石の組成を理解する発見に繋りました。
三つ目が大森先生から渡された水温検査器で毎日馬場の浜の海水温を計測し記録する事でした。夏休みの間30日にわたり計測しましたが、ほぼ毎日24度Cで変化はありませんでした。休み明けに大森先生に報告書のグラフを提出しましたが、先生は結果を見てキョトンした顔をし無言でした。今でも意味不明です。
その二年後の1970年9月、高二の秋に東北大学理学部により、世界最古の魚竜が館崎で発見されその発掘の現場に立ち会いました。この時NHKニュース班が取材にきて、私も写っていると思いましたが、翌日のニュースでは腰から下しか写っていませんでした。しかし、ジーンズとバイク用のブーツの形で自分と判別出来ました。
そして後にこれが「歌津魚竜」と命名されました。更に高校時代の研究では「田束山の経塚」の発掘に立ち会いました。その結果経典埋設は平安時代末期の仏教の「末法思想」によるものと判明しました。
◎ 経済学研究 ◎
我国経済における財政投融資が果たした歴史的役割
郵政省貯金局に在籍していて、郵便貯金が財政投融資の原資になっていたので、その研究に東北大学経済学部の大学院に行きました。
博論:地政学から見た経済論(予定)