動画 郵映放送・NeT・TV局
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映画 Don・Vito・Fumioneの世界
☆ ゴッドファーザー ~愛のテーマ
☆ある愛の詩 恋に落ちて ゴッドファーザー・ギター ゴッドファザー ワルツ
この映画が出たころは卒業がせまっていましたが、ある問題を抱えたままで悩み深きときでした。
いわいる青春の蹉跌というやつですね。さらにこの映画を観て切なさが募りました。どうする事も I can not で卒業をしてしまいました。二人がロックフェラーセンター前で、スケートをするシーンが印象的でしたね。
魂のこもった青春はそう安易に滅んでしまうものではない ハンス・カロッサ
〈 郵映放送・NeT・TV局 〉
今やロンドンオリンピックの楽曲にも選ばれ、こんなにポピュラーになったビートルズ、かつて誰が予想したでしょうか。当時は髪が長いだけで、紅白歌合戦に出られませんでした。
私的にはビートルズの曲はすべて好きです。や っぱりジョンとポールの才能は非凡でしたね。その事が理解出来なかった年寄り達に、アッカンベーですね(笑う)。
1969年1月にアップル屋上で、突然、演奏を始めて、ロンドン市民はもとより世界中のファンの度肝を抜いた有名なレコード制作の為のリアルな映像です。スコットランド・ヤードもお出ましで、大騒ぎと成りました。
この最後のLP「Let it be」を出して解散となりました。この、いかにもプロテストなニュースを見た、当時高校生の私は拍手喝采をしました。いま、また見るとみんな若かったですね。
この画面の一番右はじに腰掛けて座っている髪の長い女性がオノ・ヨーコさんです。当時からこのように録音に立ち会ったりしました。
そのため時々ポールがイラついて『カム ツゥゲダー』で歌われてる「髪がひざまで垂れた、航空母艦のような女」とはヨーコさんの事です(笑う)。ポール曰く「顔が大きくて飛行甲板の如く広い」のだそうです。
仙石線、多賀城(ジョー)の次は、下馬(ゲッバッグ)もポールがジョンをからかった歌で、この時はジョンとヨーコさんが喧嘩して彼が米国に行ったきりで戻って来ないので
♪「ジョージにアリゾナの田舎の草競馬新聞からペイパーバックライターにならないかとメールが来てるから ゲッバッグジョー」♪「早く戻って来い」「いつまで居るんだ」♪と歌にしたのです(笑う)。
動画小説 作家 Don・Vito 青春記
思い出の名場面をミュージック・シーンで綴ります お楽しみください
◎「NET歌のアルバム」思い出は音楽と共に心にあります 出来るだけコメントも添えたいと思います
花のささやきはアメリカン・ポップスではなくイタリアン・カンツォーネです。中1の頃一度はやりましたが,70年代後半に再登場しました。
ピーター・ポール&マリーの「虹と共に消えた恋」を初めて聞いたのは中1のクリスマスの頃です。明日から冬休みという24日に大森先生がクラスの日記か何かを生徒に返していて、畠山君子さんの番になると、彼女がノートの裏に書いた詞「シューシュー シュラルー」というフレイズを読み上げ「君ちゃん これはなに」と冷やかすと彼女は嬉しそうに受け取りました。その時わたしは自分以外にPPMを知っている人がいて嬉しくなったのでした。
この曲は五学級のころですね。テレビでモンキーズショーが流行り、その中で毎週のように流れてましたね。レコードも買いました。グループはショーのためのユニットだそうで、そのためイギリスから参加したディヴィー・ジョーンズがさかんに英国ナマリをネタにされていました。
当時、番組は日本語に吹き替えられてましたが、わたし達も英語を習いたてでクィーンズ イングリッシュあると教わりましたが、どちらがアメリカンかクィーンズかも判明つきませんでしたね。
ボブ・デュラン メリー・ホプキン マンチェスターとリバプール
「風に吹かれて」は三年生のとき英語の小池先生が、英詞と共に教えてくれましたね。いまになってみると詞がナイーブなせいか直訳そのままですね。曲名の「風に吹かれて」は私の一番初めの小説のタイトルにも採用しましたが、そのボブ・デュランもいよいよノーベル賞を貰えそうで嬉しいですね。
ミスター マンディー ジョン・デンバー オリビア・ニュートン・ジョン
このミスターマンディーが流行ったのは71年頃でしょうか。大ヒットしましたね。私はこの「オリジナルキャスト」という言葉が好きで意味も「初期のメンバー」くらいに受け止めてましたが、実は辞書にもなく英語圏の人に尋ねると「なにそれ?」ッてな顔されます。また、定冠詞も単語が母音で始まるときは「ジ」なんですが「ザ」になってます。どなたかご存知あればお願いします。
カーリー・サイモンはポール・サイモンの妹ではないそうです。当時そのような噂もありました。ロバータ・フラックの Killing Me Softlyの表現には当初ヤボテンの私には馴染めませんでした。彼らの愛情表現の深さは伝統的なのでしょうね。日本人では歯が浮き過ぎて、石田純一でも無理、せいぜい新宿の場末のホストクラブのネタですね。
サイモンとガァーファンクル
LE CONDOR PASA サイモンとガァーファンクル93
秋になって紺碧の大空が続き、コスモスが咲き、風に揺れ始めると、聴きたくなるのが、この曲ですね。そのときコンドルはむりでも、トンビぐらい飛んでくれると嬉しいですね(笑)。
1971年、曲が素晴らしいので、詞を訳してみようとトライしましたが、♪「パセリ セイジ ローズメリーとタイム」♪のところで意味がつながらず挫折しました。
当時、わたしの高度な藝術性と、高邁かつ難易度の高い(笑う)理論の、最大の理解者であり、そして、また、いつも的確なユーモアで返してくれる人でしたが、残念ながら若くして亡くなってしまった、及賢に意訳した詞を渡し感想を求めましたが、彼もどう評価したものか理解に苦しんだようで「サイモンとガァーファンクルか?」と言って絶句しました。
たしかに「縫い目のないケンブリッチ シャツを作れば」なんて訳されても、正直、彼も意味不明 だったのでしょう。期待をしていた、お得意のジョークも聞けませんでした。
ただ、いまになって歌詞の本当の意味が多少わかると、当時、わたしを悩ませたTさんともつながりを感じ、また、そのときやはり彼が、二人の出会いにも立ち会っていて、その経緯のすべてを知っていたことを含め、さらにこの曲に巡りあったことの神秘性を、思わずにはいられないのです。
<ラストところ >
♪ Remember me to ~ she once was a true love of mien ♪
「かつて私が心から愛した人なのです」が秀逸ですね。
曲と同じく難解な文章となってしまいました(笑)。そして、賢ちゃんに合掌です。
わたしも真冬ではないですが、4月29日にセブンス アベニュー(7番街)にたたずんでみました。春先でもやはり歌の通り寒いんですね。
( フィフス アベニュー 五番街のマリーさんチや,ティファニーは,ここから2ブロック,約300m東)です。
宿がブロードウェイと54丁目の角の「ホテル アメタリア」そうイタリー系の古いホテルで、劇場街に面したすぐ隣の入り口では、ミュージカル「ミス サイゴン」が上演されていました。54ストリートに面した、ホテルの入り口の斜め向かいがカーネギーホールです。
リムジンで迎えに来るのかと期待してましたが、来ないのでリトル イタリーにはタクシーで通いました。(笑う)
で、曲の内容に少し踏み込みますと
♪「ニューヨークの冬はとても寒く厳しく、7番街に立っている若く貧しい自分には、この街で生きると言うことは、ボクサーがリングの上に立ち、戦っているようなものだ」♪と言う大意です。
この時は小説「J・F・K ダブル スティツ」の取材が絡んでおりましたので、ラッキー・ルチアーノやマイャー・ランスキー、フランク・コステロの少年時代が思い浮び上がりました。
移民の子として何のスキルも無い彼らが、みずから組織を作って、ニューヨークで誇り高く生きるということが、どう言うことか理解出来ました。
最近、ケネディ大統領、フランク・シナトラ、サム・ジアンカーナ、マリリン・モンローについて、私が小説に書いた通りの証言映像が出ました。詳しくはこちらにも有ります。
フォークソング
岡林信康 チューリップのアップリケ 手紙 友よ 君に捧げるラブ・ソング
この「山谷ブルース」の画の背景は旧赤プリの庭からですね。この年の4月15日に修学旅行で東京に行ってました。
「二人は試されてるの君は僕の何に これで壊れてゆくなら僕は君のなんだたの」君に捧げるラブ・ソング
岡林さんは同志社の神学部だそうです。だから歌にメッセージ性があるのですね。
この曲は宮町時代の最後に歌いましたね。竹田の子守唄これをあなたが歌いだし、そして二人でハモリ最後のお別れとなりました。この歌は付きあい始めた頃に流行りだしたので「赤い鳥」と「サイモンとガーファンクル」が好きだと伝えたものでした。良くわかってくれたので嬉しかったのです。
ただ、竹田の子守唄はヒット直前だったので、あなたはまだよく知らなかったようで、ユニークな受け答をしてくれましたね。それから数年後、この日突然に歌いだしたので「いつの間に覚えてくれたんだろう」と胸にグッときて♪「この子よう泣く守をばいじる」のモリオというところで、涙 が出そうになりました。だからつらい別れでした。
そして津波のあとに安否が知りたくて探しに行きました。実は被災から1ヶ月後の四月の新聞に、病院がとても困難な状況下にあったと連日載ったので心底「流されてたらどうしょう」と、途方に暮れる思いだったんですよ。「まだ、伝えたい事があったのになぁ」と、そして、あのような再会、嬉しかったです。
きっとすべては運命だったんですね。これからもGod bless you.by Fumi.
「風」の22才の別れが出た時期が22才でした。わたしにも22才の別れがあり心にしみました。
☆ クラスシック・映画音楽
G S・歌謡曲
ワイルドワンズ ジャガーズ
ゴールデンカップス カーナビーツ
「初恋のひとに捧ぐ」
ですね。なにせ小学校に入学して3日目から、4年生までいつも一緒で何かあると、二人でほほ笑み合っていましたからね。
幼いときにドーパミンをたっぷり受けて感じた、嬉しい楽しいと言う感情は、生涯続くようですね、特に初恋は誰しも心の奥底に大事な思い出として残るようです。
「花の首飾り」は私たちが4月15日に東京に修学旅行にいく頃に、はやり始めました。東京でも何処かで曲が掛っていたのを耳にしてます。それで、教頭先生が「白鳥」さんで、「白鳥教頭がなに言った?」なんて洒落を言ってた人もいましたね(笑う)。
初恋の人とゆえあってコメントなしです。
この歌が流行ったのは、一年生の夏休み後、二学期が始まってすぐ、8月28日ごろでした。当時、昇降口が4ヶ所あり私達が出這入りしたのは校舎の真ん中、三学級と四学級の間の玄間でしたね。
ちょうど、この日の夕方5時過ぎ、夕日が真っ赤に染まり、校舎の西端の三年生用の昇降口に差しこみ、廊下全部を貫いて、私が下校しょうと靴を履き替えている所までも届いていました。
すると、その真っ赤な夕日をバックに、両手をポケットに突っ込み、♪「あの娘の唇が~ 真っ赤な唇が~僕を呼んでいる~」♪と大きな声で歌ってる人がいました。「誰だろう?」と50mはある校舎の西端に目を凝らすと、兄の同級生の「韮の浜」の新太郎さんでした。
その光景がまるで映画のいちシーンのようでした。
兄達を送る予餞会の時期には、ベンチャーズのこの曲が大ヒットして、最初から最後までこの曲をかけて送りました。盛大な送別会となりました。
僕のマリー モナリザの微笑み シ-サイド・ バウンド 君だけに愛を
E様はじめ、当時ご迷惑をお掛けした方々に、お詫びと懺悔の物語が有ります。お許し下さい(笑う) 。
二年にあがる時、次はどのクラスに配属になるのかなぁ、と期待をしていたら、なんと教室をたったひとつ東側に移動しただけの二年一組、五学級で拍子抜けをしました。
すると、ひと月半後に更にもうひとつ東に教室が移され、なにか落ち着かない日々で、朝の二時間目の休憩時間に廊下に出て伊藤さんと「それにしても大森さんから逃れられてよかったなぁ、幸夫や洋はそのまま八学級で犠牲者だよ」とか言って笑っていました。まっ、私達もまた次の年に十二学級で捕まるんですけどね(笑う)
その日は梅雨に入ったかのような薄暗い天候で、廊下から見える校舎北側の、宿直室の前の庭に咲いたピンクのバラに、白くやさしい雨がふっていました。まさに「僕のマリー」のような雰囲気でした。そろそろ教室に戻ろうかと振り返ると家庭科の授業で木工室・金工室・調理室方面に向かう三と四学級の女の子の姿がありました。
その時フランス人形ならぬ、お針箱を大事そうに抱えて目の前を行く、二人組の女子の、髪の長い三学級の少女がJ子さんでした。
(お詫び) あとが怖いので・・・この辺でお開きと言うことで、また「ひらにご容赦のほどを」お願いします。
♪「野菊を飾った~小舟の陰で~」♪
このフレーズを口ずさむと何時も思い出す光景があります。今は国道45号線の歌津大橋を作るさい、三嶋山は岬が二つに切り通しとなり、道路になってしまいましたが、以前はひとつの半島状態でしたね。
秋になってその三嶋山に登って、伊里前湾を眺めると、この津波で流される前は、対岸に♪敏克さんの家があり、その前浜に「小舟」が引き揚げてある風景が思い出されます。秋には最高の景観でした。
ところで、貴女が清水道夫さんの熱烈なファンと言い出すと、「髪型が違うジャン」とわが五学級の女性陣は、私のぼさぼさ頭をさして「セット」というあだ名をつけました(笑う)。
この曲は元己君がテープに撮ってくれて、擦り切れるほど聞きました。体育祭や石浜での野外炊爨でも聞きましたね。忘れられない良い歌です。
エイッ、もうめんどうくさい、同級生は全員だめ、ひとつ下の j子さんが本命とリリースして、エーイどうでィと、どや顔してたら、さぁ、出てきましたヨッ、定番中の定番、大御所様の貴女様が・・・
廊下で会うたびに、遠くからでも京子さんと、これを歌い出すんだものォー、ああー、やっぱり逃れられんのだなぁーと思いました(笑)。
Eさんと七学級の女性陣の皆様、予餞会の練習ご苦労さまでした。貴女方が外はもう真っ暗な中で教室に電気をつけて、この曲を何度も、なん度もかけて、大ボリームで校庭にまで響かせ、ゴーゴーを踊ってたのを、私も柔道の練習を終えて、自転車置き場に行く道すがら見てましたよ。
その黄色い声と「キャー」という歓声に圧倒されました。
この歌は二年生の12月ごろ、朝の「ヤング720」という番組から流れきて、大ヒットしましたね。その斬新さに驚嘆しました。この次の年に「悲しくてやりきれない」が出るわけです。この前後で「何か時代に進化というものが確実にあるのだ」と言う事を実感させてくれた曲でした。ケメコの歌は艶子さんが歌ってました(笑う)。
日本のエレキの神様と呼ばれた寺内タケシさんの「レッゴー運命」は二年生の秋です。この曲を聞くとあの年の秋の、ぬけるような青空が鮮明に蘇ります。アメリカの第1人者と言われたジミー ヘンドリックスの存在を知ったのは二年後の高1の夏休みです。ニューョークの郊外、ウッドストックに観客が3〇万人に集まったと聞きオッタマゲました。
この曲は三年の夏休み後にはやりましたね。九月に体育祭があり、その準備と練習のときの思い出につながっています。メキシコオリンピックがあった年で、この年の夏も猛烈に熱かったです。
当時の応援歌♪「霧のロンドンで誰が言う♪ビートルズの言うことにぁ♪今年も4区が勝つ勝つ勝つ勝つ」♪
二番♪「もしも1区が勝ったなら電信柱に花が咲き♪描いた魚が泳ぎだす♪泳ぎだす」(花咲爺さんのメロディーで歌う)
♪「君の素敵なブラックコート♪二人で歩く坂道に♪こぼれるような鐘の音」♪と聞くとたまらず懐かしくなるのが、気仙沼の市民会館から坂道を登って至る、市民図書館とその庭のあるあたりですね。あそこから見える気仙沼港の景観は最高でした。近くに教会はないのですが本当に鐘の音が聞こえて来そうでした。
図書館には調べ物などで随分通いました。いつの間にか鼎の女子と顔見知りになったりして、多少意識したりしましたが、あっ、また来てるな、と微笑みあって終わりでも楽しいひと時でした。
下の市民会館には71年秋に「ベンチャーズ」が気仙沼で初めてライブをしたので観に行きました。徳幸君がテープに取って皆で何回も繰り返して聞ていたら、本当に擦り切れてしまい、私が冗談にボンドで繋いで試してみると、ちゃんと演奏が綺麗に聞こえたのには驚きました。
同じ年に「内山田洋とクールファイブ」が来たのも観に行きました。その後かに確か「藤圭子」さんも来たと記憶してますが、私は見られませんでした。熱烈なファンのミチヒロが観てきて様子を聞かせてくれました。
また、二十歳台前半に小学校の近くに盛幸さんのアパートがあり、下の大堀銀座で伊藤さん及川さん元己君、茂喜さんなどと夜遅くまで飲んで、部屋に転がり込み大騒ぎした思い出は忘れられません。この頃ですね、伊藤さんと陽子さんが知り合って結婚したのは、楽しい青春の一ページでしたね。
いまでも気仙沼に行くと時々登ってみます。
そう言えば、震災後に必ず行くようE様に命じられて尋ねた、個展、イベントで偶然Tさんの友人西城画伯と出会ったのもここですね。私の運命って一体どうなっているんでしょうか。まさにオーマイガーです(笑う)。
あと♪「いつか君が見たいと言った遠い北国の湖に~悲しい姿スワンの涙~」♪と有りますが、帰省するとき三陸道か東北道かを、その時の天候や気分で選ぶのですが、特に冬に長者ケ原SAを通るさいは、伊豆沼や長沼の、オランダ風車のある公園で一休みして白鳥を眺めます。すると自然にこの歌を思い出します。
小説「風に吹かれて」の白鳥の話は猪苗代湖と、ここでのイマジネーションが元になってます。近くを通るさいに思い出して頂くと嬉しいです。
黒板の卒業式までの日数をカウントダウンしながら、3月1日いよいよ後輩からの送別を受ける予餞会です。屋体でジュースとお菓子を食べながら各学年の歌や踊りを楽しんでると、いよいよ気になるひとつ下の J 子さんのいる二年一組 五学級の出番です。
すると、いきなり大音量の「OX OX ♪ キャー」いう声でこの曲が始まり、寺前のチカちゃん達があの大きな胸を震わせて、ゴーゴーを踊りながら登場したのには驚きました。また、それまでこの曲の存在を知らなかったのですが、誰かが「スワンの涙」のB面だと教えてくれたので、それからよく聞くようになりました。
あのときのチカちゃんの踊りは今でも鮮明覚えています。忘れられない程すごかったです。(笑う)
また、私よりも九学級の元己君のほうが喜んでいました(笑う)。
三年生でもクラスが一緒だった、艶子さんが歌い踊ってましたね。ツヤヘーさんとは五学級から一緒で、はじめは反発ばかりするので、「なんて可愛くないやつ」と思ってましたが、年賀状をもらい「なんだ、そうなんだぁ」と改めて自分のボクネンジンぶりに呆れました。
それから親しくなり、現金な私は「ふむ、ふむ、なかなかの美人なんだ」と認識を新たにしました。髪型とか中村晃子さんに似てましたね。(笑う)
九学級の女性陣がこの曲でゴーゴーを踊ってましたね。特にEさん方達。
歌謡曲
やっぱり裕さんは絵になりますね。二人の世界は十八番です。
こんなに面白い番組もなかったですね。なぜ、終了したんだろうと今でも思ってます。ピーナッツとハナ肇さん、安田伸さん、なべ・おさみさんの「ヤスダー」は絶品でした。いつか、じっくり書きます。今はただ「ユミさん、ゆっくりお休み下さい」。合掌 です。
小樽には二度行きました。最初は小樽貯金局に出張で、二度めは歌の中にもありますが、塩谷の浜辺にある古代文字の取材で、その時かつての小樽貯金を探したのですが、何度あの坂道を車でトライしても以前の記憶の場所に辿りつかず、探しきれませんでした。会いたい方がいたので、思いがとげられず、残念でしたが、その時ひとつの物語の構想が浮かびました。いつか、作品にしたいと思ってます。
この曲はメジャーヒットでは有りませんが、ジュディ・オングさんの十代のものです。五学級のとき急に佐重喜君が七学級のとみ子さんが好きだと打ち明け、みんなで大騒ぎになり私も便乗してヒヤカスと、とみ子さんからきつく睨まれ、たじろいだ思い出があります。そのとき11月ごろの夕方でした、屋体の屋根にかかる月が特に赤くそまり、この曲が出た時期で元己君が歌ってたので、思い出となって残っていました。ジュディさんも17才位でしょう、何か心にのこるセツナイ歌でした。
ただ、その後とみ子さんは春樹君と一緒になり、その春樹君が今回同級生の中で唯一、公務中に犠牲者となられてしまいとても残念です。ご冥福をお祈り致します。
この曲と 「ブルー・ライト・ヨコハマ」「星影ワルツ」が私たちが中三のとき100万枚を超えるヒットなはずです。ピンキーとキラーズは毎日のようにテレビで歌ってました。千昌夫さんの曲は丸一年間一位だったはずです。
黛ジュン
二年のわたしの誕生日の頃です。この曲が大ヒットしたのは、♪「愛されたくて 愛したんじゃない」♪が自分の斜めになった心に、ぴったりのような気がして、愛唱してました。ちなみに黛さんと誕生月日が同でした。その他にジョン・ウェイン 宇多田ヒカルさんもそうですね。あと、忘れてました、四学級で一緒だった 千葉京子さんもでしたね。随分会ってないけどんな感じでしょうか。
二年の秋です。この曲も好きでしたが、この歌もどう考えても、あなたのものですね。尾崎様に行くとき、あなたの部屋に灯りがともってた思い出が何度かあります。もっとも故郷に残ったのはわたしの方になりましたが、とくに3番が心に残りました。
二年の冬の大ヒットですね、予餞会の練習であなた達がこの曲とタイガースの「君だけに愛を」で踊っ てましたね。わたしはその時初めてのインフルエンザに罹ってしまい高熱で3日間寝込みました。
この曲は中三の秋ですね。この歌の意味に有る時、急に気付き申し訳なくなり、その後聞けなくなってしまいました。いまでも胸が苦しくなります。あなたは何も悪くないです。
映画の思い出から
この曲は1年の秋、中間テストが終わり、屋体で観た西郷輝彦の「星のフラメンコ」と2本立てだった「高原のお嬢さん」です。
ある時、小海線の清里の八ヶ岳清泉寮に行ったことがあり、初めてここが映画の舞台、ロケ地であることに気付き、感動しました。現地は今も映画の画面とほとんど変わっておらず、まるで、当時にタイム スリップしたようで、嬉しくなります。同時代を共有した方にお勧めです。
中1の冬、3学期の期末試験のあとで屋体で観た映画です。舞台は新潟県の十日町市ですね。和泉雅子さんが東京の大学に行き、舟木一夫さんが地元に残り機織の伝統を守る設定ですね。
当時の地方の高校生の等身大の青春恋愛映画のような気がしました。
これは後で気付いたのですが、このシナリオを書いたのが、尊敬する倉本聡さんなんですよね。自分もシナリオを書く練習で、随分勉強させてもらいました。
スクリーンの中で、ちょい不良役の山内賢さんの「ナシつけてやっからヨ」が流行りましたね。
結局、歌中で観た舟木一夫さんと和泉雅子さんの映画は、この絶唱が最後でしたね。3年生の一学期の期末試験のあとで屋体で観たものです。夏休みに入る1週間ぐらい前です。
原作は島崎藤村で文学性の高い作品と、大変な前評判で期待して観ました。作品自体は私達が2年生の冬に出来ていたと思います。短い中学生活の締めくくりのような気がしました。
当時、学校では年五回の試験のあと、必ず映画観賞の日がありました。テーマは生徒会が自主的に選び上映されるのです。したがって多くは直近の青春映画のヒット作でした。
入学した年の最初の試験の後に観たのが、加山雄三さんの「海の若大将」でした。そのなかで田中邦衛さん扮する、青大将の「船長命令だ」が長く学内の流行語になりましたね。この続き物の「大学の若大将」は2年生の1学期の期末試験のあとに観てます。
それで、映画の中で大学があまりに楽しく描かれていることを、生徒が話題にすると、東京理科大出の佐々木道子先生が「あんなお気楽な大学は無いわよ」とレクチャーしてくれました。
佐々木先生とは色々ありましたが、私らより7つ位上で本当にお嫁に行けるのかマジで心配で、二十歳代に偶然お会いしたとき、ちゃんとお嫁に行けたの?と訊くと「まーだだょ」とか言ってたので、しょうがないなぁオレがもらってやっからと言って笑いました。
その後どんな感じなんでしょう。ちょっと気になる先生でした。
で、映画は年に5回で2本立ても有りましたから、3年間で30本近くは観たと思います。思い起こせば、気力も知力も友人達にも恵まれ、最高潮でいい青春の時を過ごしました。
私の人格陶冶、精神性の基礎はここでの三年間でほぼ決まりました。
卒業
3月10日、ついにわが十二学級にも別れの日、解散、卒業の日がやって来ました。
いまは、昨年の3月11日以来とても辛い日となってしまいましたが、私たちが卒業した日にちはその前日だったのです。ちなみに兄たちの日は14日で、その4日間の短かさに私は先生がたの差別を感じました「はっは~ん俺たちを、とっと追い出そうって魂胆だな」と(笑う)
で、今や伝説となった十一学級と十二学級の卒業式当日の 様子を再現します。ただ、九学級と十学級の様子は 教室が離れていたので不明です。
屋体で式が終わり、教室に戻り「さぁーお別れだー」という時にヒデが、当時大ヒット中のこの曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」を持っているとなり、じゃ皆んなで聴こうとなりました。
そして二回三回と曲を掛けるのですが、どうしても別がたく、十一回目あたりに大森先生が「もう、いいだろう この辺にしょう」と寂しそうにつぶやき、あきらめがたくも全員立ち上がり、別れの挨拶をしました。
私はすぐ後ろの席を振り返り、三年間ずっと一緒だった伊藤さんに握手を求め「さっきの答辞、とてもよかったよ、感動したよ」と言うと彼はいつもの満面の笑顔になり「フミ、ちがう、あれは以前、うちの兄が書いた物を丸写しにしたんだよ」とネタばらしをしてくれて、また二人で笑い合い、最後の硬い握手をして別れました。
彼が三年間ずっと同じクラスにいてくれて、「一、二番コンビ」と言われ、最強のタッグを組んでいたので、私の中学生活を楽しくかつ有意義に彩ってくれました。、また優れた仲間、友人達にも囲まれて、かなり豊かな青春時代を送ることが出来ました。彼や「主役」こと及川さんのお陰でした。
中学時代の最後に聞いたタイガースの曲はこの「青い鳥」でしたね。
それで、十一学級が卒業式のあと、街におりて「阿部長寿司店 」で宴会をやるからという話は少し前に、誰かは忘れましたが「その時は寄れや」と言われてました。
長いあいだ考えての結論だったのですが、卒業式当日の帰り道は一人で帰ろうと決めていました。あえて仲間たちから離れて一人になりたかったのです。理由は自分自身に区切り、決心を課すためです。
そのため、一旦自転車を学校に置いたまま街におりて、阿部長寿司店に向かいました。すると私達がブルー・ライト・ヨコハマを十数回も聞いているうちに、十一学級の宴会はもう盛り上っていて、テルも出来あがっていました。
その時、トオルの姿が記憶にないのでチエコの家にでも行ってたのでしょう。あとで「彼女の部屋にしのび込み、お母さんに見つかりそうになり、何度も押入れに隠れた」とか言ってましたから(笑う)。
で、宴会もなかば、私がご馳走を食べ終わるころ、もう完全に出来上がったテルが真っ赤な顔をして「YUKIKOが好きだァ」と大声で何度もオダを上げて止まらんのです。どうやら卒業まで打ち明けられなかった、彼女への気持ちを酒を飲んで「ここぞ」とばかりぶちまけたようです(笑う)。
「テルがYUKIkOを云々」というのは以前から多少聞いていましたが、最後にこうなるとは想像外でした。そのテルをシゲキとYUKIKOさんが介抱するのですが、さらにテルはあのジン・キニスキーと言われた風貌と大きな体で、転がるやら大声をあげるやら手がつけられなくなってきました。
わたしは問題がYUKIKOさんの事なので、もう、どうしょうもないなぁ、笑ってお開きにするしかないなぁと、店を出ることにしました。あとで聞くとシゲキとYUKIKOさんが、テルを館までタクシーで送って行ったそうです。
そして店を出て街を歩いていると誰かが、今度は港グループが三島様の下の第二防波堤の所で、気炎を揚げてるとのこと、わたしは「それは是非、行って見なきゃぁ」と急ぎました。いよいよ港のスター、マゴの出番です(笑う)。
街を東に三島様に向かい及新と内海百貨店の前から、当時、佐々木道子先生達が住んでた、小野寺医院の横を過ぎ、アッちゃんの家の前を通り、第二防波堤にたどり着くと、そこには7~8人いてマゴの左手には、カラになった赤玉ポートワインのボトルが握られていました。
どうやら、もうすでに一本空けたようです。そこでトウシチと私の従兄弟の勝男君がいたので「どうしたの?」と訊くと 「マゴがチエコに打ち明けられずに卒業したのが、心残りのようだ」とのこと。
「う~ん そ~うか、確かにそう言えば、教室で時々、ボリがどうのと日頃良く言ってたなぁ」とわたし。
「ボリ」とは山内孝樹君が付けたチエコのあだ名です(笑う)。
「だけど、チエコはトオルだろう」とわたし。するとトウシチが「そこなんだよ、二人は幼い頃からの親友だよ」「なるほどなぁ、そりゃ、つらいわなぁ」とわたしが言うや・・・
次になにやらマゴがサントリーの角を手にして、封を切り始めました。私は「おッ、また飲むのか?」と注目してると、なんと、今度は急にボトルごとラッパ飲みを始めたのです。そしてみんながアッケに取られていると、息もつかずついに半分を一気飲みしました。
その時私は「あッ、もしかしたら、こりゃ~マゴのことだから、全部行くな・・・ところで、大丈夫かぁ」と心配になってきました。
するとやがて2/3まで飲かけた時、息次をしなければならなかったようで、ボトルから口を離すと、急にピューと、まるで鯨の潮吹きのように天に吹き出したのでした。
何んともすごい事をやるもんです。で、わたしは驚くやら、心配やら正直、思考停止に成りました。
その後卒業して何年後かに会った時「心配してたけど、あの後どうなったの」と訊くと。
「あれから、3日間寝てた」とのこと。「だよなぁ」(笑う)とわたし、でした。
ちなみに後日談として2013年2月9日の同級会でマゴに会ったので、再取材すると、実はあれから彼は阿部長寿司店にかつぎ込まれ、そこにはチエコが居て、彼女の膝枕で介抱してもらい、シヤワセなひと時を過ごしたそうです。どうやら思いは叶ったようです。メデタシ メデタシ です。
そんな訳で、さきにトオルの姿が見えなかったと書きましたが、確かにトオルもチエコもあの場にいたようです。そして、マゴの話によると、彼ら親友同士は卒業したら二人で外国航路船に乗り、世界中を駆け回ろうと約束していたそうですが、トオルの両親が反対して彼は進学したそうです。
だからもし高校に行かず、自分と共に行動してたら、あんな終わり方をしてなったかも知れないと、しみじみと話してました。トオルとそしてテルにも合掌ですね。
こうして十一学級と十二学級の卒業式当日の伝説のエピソードは終わる訳ですが・・・このあと、自転車を取りに学校に戻った私にも、ひとつ下のj子さんの事で、ある思い出があるのですが・・・
これ以上はE様はじめ、後がコワイので書けません・・・(笑う)です。
最後にひとつ
入学するとき、当時「泣く子も黙る」と言われた歌中の校門を緊張して入ったのは、つい昨日のようです。そして三年後、今度は大手を振って出て行く今日、それでもあの校門を出るのがとても名残惜しかったです。
そこで私は少しでも時間を惜しもうと、校門を出るとき、自転車を降りて押しながら、加藤鍛冶の坂まで歩こうと決めました。右手には母方の忠治叔父さんが、数学の先生として赴任したとき植えたと伝えられる、檜木、あすなろの並木があります。そして、その木の間から下の伊里前小学校が見えます。朝夕馴染んだ風景です。
やがて、おの文の所まで来て、いよいよ加藤鍛冶の坂です。この角を曲がって坂道を降りたら、もう、わたしの中学生生活のすべては終わりです。
「明日からは1人でシャバに放り出れたようなものだ。何の庇護も無く歩いて行かねばならぬ」
その決意が今、自転車に乗り「この坂道を降りたときから始まるのだ」と自分に言い聞かせ、あの急な降り坂を全速力で、まるで、特攻機のように勢いよく下の旧国道45号線まで一気にかけ降りました。
こうして私の最も熱く心に残る快活にして豪快な、その上また、愉快で楽しく謳歌した青春のひと時は終わりました。
その後の私の青春は、あの三年間ほどの「粋で華やかに」かつエキサイティングで燃えるような日々もイベントもなく、ただ学校、仕事、研究、さらに創作活動のローティションの中で、この度の震災を迎えるのでした。
しかし、そこにはこれまでの日々の研究から想定していた、真の「歌中魂」が必要とされる、乗り越えなければ成らない国難と、新たな時代が待っていました。
その頃、ジャガーズの岡本信さんに似ていたマゴはこの曲をよく歌ってました。
このようにして校歌「太陽は輝けり」を歌い修め「日はまた昇る・ネバーギブアップ」の「不屈の歌中魂」を育み、鍛え、そして磨き卒業しました。以上 終り。です。
高校の頃
1969年の夏だそうです。この曲がヒットしたのは・・・わたし的には全部悪いのは自分なのですが、いろんな事が起きて、自分では解決不能で、さらに切なくて、素直になれずにトンガって、周りにも迷惑をかけ、複雑な思いで聴いていましたが、この歌は好きでした。
のちにある人にこの話が伝わり、問われましたが、すでに私の周りではタブーになってる話を、どこから訊いてきたのか、何とも応えられず絶句しました。
すると優しい彼女は「う~ん、いいん~だぁ、私にもそんな人いるんだぁ」というので「どんな人」と訊くと「この歌の歌詞に出てくるような感じの人で・・・」と言われましたが、不思議にもあまりジェラシーは感じませんでした。
それでその人と一緒になると言われ、帰したのに ・・・
人生、わからんもんですね。もし、あのようになるなら、たぶん、帰さなかったと思う。
それだけ自分の中での初恋の失敗の精神的比重が重かったので、むしろ彼女の言う初恋の相手なら間違いないだろうと思ったのです。正直「初恋がうまく行くって、うらやましいな」とずっと思ってました。また、私とだったらきっと苦労かけたな、とも思ってました。だから「あれで正解だったんだ」と自分に言い聞かせていました。
とここまでは震災を迎える半年くらい前までは・・・です。そして、いま思えば天の啓示でした。
じつはある古い記憶を呼び戻す事象があったのです。それで、どうしても流される前に急に居場所を確認したくなったのです。そして津波の後に探しに行きあのような再会になりました。私にしてみれば出会った時もそうですが、運命としか受け止めようがなかったです。正にオーマイガーなのです。
日吉ミミ ギターのように愛されたい ヒデとロザンナ 望郷 女の意地 琵琶湖周航の歌
日吉ミミさんが出たころがちょうど二年の夏休みで、また喜悦君の大北荘が出来て、姉の信子さんも仙台の学校の夏休みで帰って来いて、ヨシアキ、ショウエイ、カンチョと私で毎晩入り浸りで、よくジュークボックスでこの曲を聞いていました。
ショウエイ曰く「このふてくされた歌い方がいいな」で大ヒットしましたね。この歌からハスキーボイスという言葉が世に初めて出た時期で、森進一さんとかの全盛期です。
二年の秋ラジオからこの曲が盛んに流れると、あまりにも良い曲なので「ポール・サイモンよ、なんてぃ曲を作るんだ、天才を超えているジャン」と思って調べても分からずにいましたが、随分たってアンデスのフォルクローレと知りました。それでも無名の民謡を世界に知らしめた、彼の才能に改めて感動しました。
それでもって、例によって訳してみようとトライするわけです。すると単語はそんなに複雑ではないのですが、意訳があって次のところが意味不明なのです。
二番の初めところで♪「I'd rather be a hammer than a nail」♪
意味は「私は釘よりもハンマーを振るう方がいい」という詞です。しかし、どうも私にはピンとこないのです。
で、一例として裁判所の判事の持つ「木槌」のことか?とも思いました。と言うのも聖書の中に「人を裁いてはならない」という言葉があり、意味は反語で、やたらにハンマーを振るってはならぬのか?とも思いました。しかし、裁判「judg」 ジャステスが無いのです。
結局、17歳のときに持ったこの疑問が、自分ながら解けたのは、二十歳台後半でした。あるとき中国の古典を調べていて、アメリカ人に孔子の論語を読ませて感想を訊いたら、彼ら曰く「インディアンの古老の話を聞いてるようだ」と言うのです。「インディアン ウソツカナイ キモサベ」
そう「ネイティブアメリカンの古い諺だろう?」と言うのです。ジャーン、ここでヒラメキました。実は中国の古い諺に「良い鉄は釘にされず、良い人間は兵隊にならない」と言うのが有るのです。
つまり釘にされて一箇所に打ち付けられたら自由には動けないし、兵士になって兵舎や砦に繋がれたら自由に自分の実力が発揮出来ないだろうとの意味のようです。あと、兵士は「グレコ・ローマン」ギリシャ・ ローマそれ以前のメソポタミヤ時代から、傭兵が基本だったようです。
話は飛びますが、漢の高祖、劉邦さんも「沛県の街の亭長」だそうですから、郵便局長です。中国の駅逓信は秦の始皇帝が導入したものですが、すでに中東のメソポタミヤ時代(6~7千年前)には確立してました。
(日本では奈良時代、八世紀の遣唐使によって導入さたようです)。
当時、駅逓というのは砦、関所、ホテル、郵便局などを兼務してますから、それで地元のヤクザなどが請け負っていた所もあったのです。で、劉邦兄にぃは二足や三足のワラジを履いて、博打うちをしながら「沛の亭長」をしていたわけです。兵士とヤクザには博打はつきものでした。
それで、亭長になる前に役夫として咸陽に郵便物を運んでいる時、秦の始皇帝の行列に会うのです。
◎劉邦の身分について「亭長」の意味を司馬さんでも解き明かせなかったので、私が書き記して置きます。
そんな訳で意味のはっきりしなかった詞、フレーズは年代は違ってますが、アンデス人も中国人も同じモンゴリアンでルーツが繋がっていて、古い時代にアメリカ大陸に渡った人々が言い伝えたようです。
♪「花嫁は夜汽車に乗って」♪ 修学旅行で関西に行く直前にはやり始め、まだ見ぬ旅先への期待を盛り上げてくれてました。
♪「瑠璃の花園♪珊瑚の宮♪古い伝えの竹生島」♪の歌詞の旅情にさそわれて、竹生島にはこれまで二度訪れ上陸しました。湖底約70mから垂直に屹立してる石英斑岩の島は神秘的で、かつ舟廊下や石の鳥居越しに観える湖は風光明媚で絶景でした。いつかまた行ってみようと思ってます。
初めて琵琶湖を見たのは修学旅行中、京都日程の二日目で3月27日頃でしょうか。比叡山延暦寺の見学で、根本中堂の駐車場から見たのが最初でした。春の陽光眩しく、東南の眼下を見下ろすと広大な琵琶湖の水面が、キラキラと水乱してとても感動的でした。
それでジャグではありませんが「あの辺が瀬田の唐橋か~」などと勝手に想像していると、ここでも他校の女子から盛んにバシャ バシャと写真を取られました。しかしポーズをとるわけにも行かず、多少きまりが悪かったです。旅程七日間中ここで一番多くの写真を撮られましたね。(多少自慢です)(笑)。
もとい、で、この歌に興味をもったのは当時学校の記念歌と逍遥歌のメロディーが、旧制四高の寮歌「北の都に秋たけて」と北大予科の「都ぞ弥生」が元になってると音楽の授業で習い、レコードを聞されたのがきっかけでした。
また、岡林信康大先生の存在を知ったのもこの音楽室でした。ほんの偶然からです。が、しかし、自分の人生の一部を左右するくらいの出会いでしたね。この約一年前に「山谷ブルース」で世に登場していました。
どう言う訳か入学して授業が始まり、初めての音楽室に行くと、黒板に「イムジン河」の歌詞が書いてあり、ピアノに合わせてこれを一年間歌わされました。当時先生はトンペイ(東北大)の教育学部の出身だそうですが、ちょっとユニークな方でした。
しかし、この曲は歌中三年生の誕生日のころに流行り、伊藤さんもファンで「フミこの曲いいな」と言ってたフォーク クルセダースの「悲しくてやりきれない」の元歌と知っていたので、よけい不思議なめぐり合わせと、1年後に「今、なぜここでイムジンガンなの?」と思いながら歌っていました。
少し詳しく言うと、もともとこの曲は朝鮮の歌でしたが、加藤和彦さん達が京都から世に出そうとすると、著作権の関係で発禁になってしまいました。そこで彼らは詞をサトウハチローに書いてもらい、曲の後先を反対にして、楽譜の後ろから歌いだして「悲しくてやりきれない」を大ヒットさせたものでした。
ただ、今となって思うのは、音楽に国境は無いと言う格言を実感させて頂いた事と、また、日本の音楽史に残るであろうエピソードに、直に立ち合わせて下さった音楽の先生の先見の明に感謝すべき事です。
それで、岡林さんはこの頃は「チューリップのアップリケ」を出したあとで次に「手紙」が世に出て、知る人ぞ知るの大反響で「フォークの神様」と呼ばれてました。ただ、本人がそれを嫌がり、やがて「神様らしく」消えて滅多に出てこなくなり、長い間わたしを残念がらせていました(笑う)。
(それから大部年月が過ぎ突然2008年の夏にNHKのBSに、ご降臨になりとても驚きました。その時私は「これで世の中は変わるよ、心して生きなきゃ」と周りの人々に告げました。またこの年に何十年かぶりにEさんと再会したので伝えると、初めは半信半疑だったようですが「貴方は頭脳明晰だからすぐに分かるよ」と言ったらほどなく理解してくれました。さすがです。)
で、同じ頃、加藤登紀子さんが「ひとり寝の子守唄」でデビューして、私も風呂場の掃除のときなどに小声で口ずさんでると、よく父がニャニャしてました。きっと「いよいよ色気づいてきゃがったなぁ」とでも思ってたのでしょう。でもこの歌は私より山内孝樹さんの方がよく歌ってました。
このあと加藤さんは「知床旅情」で大ブレイクしました。「琵琶湖周航の歌」はその後少し経ってからと記憶してます。この曲も旧制三高の寮歌のひとつで、琵琶湖にあったボート部の歌です。
興味を惹かれたのは「瑠璃の花園 珊瑚の宮」とは「なんぞや?」と言う日本語にない語感と旅情からです。
最初に竹生島に渡ったのは修学旅行から十年後の1981年です。やはり十代に経験したあれだけの大旅行と思い出の地ですから、また行ってみたいと何度も思っていました。
特に大阪の中之島公園と、その川向にあり宿泊した、阪急ホテルにはぜひ再訪してみたかったのです。それで一応ホテルを予約して、私がたどったコースの、天神橋から下の中之島に降り、思い出のベンチのあたりからホテルを見上げると、その想像以上の近さに驚きました。
あの夜何事も無かったかのようにホテルに戻ると、いつになく賢ちゃんの顔が緊張してました。
実は外出する前に先生方から「近くに暴力団、松田組の事務所があるので、絶対に近づかないように」と厳命されていたのに夕食後2~3人で出かけて、そしてある事情があり賢ちゃんともう一人は先にホテルに帰っていたのです。
(べつに出入りや賭場荒しでケンカを売りに行った訳ではないですが・・・確かに天神橋を渡るとありました)
(笑う)
で、わたしがエレベーターを降り部屋に戻ると、賢ちゃんが真剣な顔をしてるので「大丈夫だろう、誰にもバレてないだろう?」と確認すると「なに言ってんのフミ、ここからまる見えで、みんな大騒ぎだ」と言うのです。「そうか」とわたしはその場で腹をくくりました。もう後戻り出来ません。あつい青春の始まりの日でした。
次に二度目に竹生島を訪れたのはその後さらに十年後くらいでしょうか。「発酵と代謝」の研究で「鮒寿司」に興味を持ったからです。このときは今津、高島市の有名な鮒寿司店の女将さんから、車で琵琶湖八景などの名所をご案内頂き大変なおもてなしを受けました。
そのため奮発して高い鮒寿司をお土産に買い多くのひとに配ったのですが、こちらでは慣れないせいかイマイチで、私の研究「タナゴ寿司を作る」も頓挫しています(笑う)。
三陸でいっぱい獲れるタナゴで「鮒寿司」のような名産品を作るのが目標です。
そしていま琵琶湖での関心事というと夏に開かれる「鳥人間コンテスト」です。大会も伝統的になりましたが、これに出場しているわがトンペイの工学部「ウインドノーツ」の活躍が嬉しいです。このところ連勝中で、毎年この番組をみると久々に歌中時代のように血が騒ぎます(笑う)。
3月28日の夜、大阪難波橋のたもとのビルの角にある「ライオンの像」の前で会い、橋の途中から下におりて歩き~天神橋に至る中之島公園で生涯忘れられない、想い出が出来ました。青春のアルバムのいちページとして、今でもとても大切にしてます。
帰ってきたらこんな曲が流行ましたね。この歌は前日まで宿泊していた京都の旅館が四条烏丸通なので、すぐ近くの新京極に出かけて買ったラジカセを、翌日、大阪の阪急ホテルで開けて、深夜放送を聞いていたら、ラジオ関西の12時の時報と共に流れてきました。(ちなみに、このとき山内孝樹さんはエレキ ギターを買いました)
この日は旅程五泊目ですが、皆まだ疲れも知らず興奮状態で、千葉が可笑しな賭けを提案すると、KSが挑戦に名乗り出て、鳩健がジャッジするとKSの速攻での勝ちとなり、その後彼はおそらく前人未到であろう大記録を達成したので「15秒」と言うあだ名か称号かで呼ばれる事になりました。
(KSとは別名ピョちゃんのこと)=唇がヒヨコに似ていたからと、のちに教えてもらいましたね。
こうして寝ないで騒いでいると、突然モリオ先生が怒って来ました。すると誰かが暗闇の中で「うるさい○○王」とかやじると「私は○○ではありません」と珍妙な怒りが返ってきたので、笑いがドッおきました。
その時わたしは急なモリオ先生の出現に「エ エーッ、なんで突然モリオ先生が来るの?」もしかしてこれはと思い、てっきり「先ほどの外での事が知れて呼び出しかぁ~」と思い一瞬ヒヤリとしました。さらに、新たな思い出とこれからの先の事を思い「自分ではコントロール不能かも」の思いに中々寝付かれない夜となりました。
やがて、イヤホンごしに「こちらはラジオ関西です。12時の時報をお知らせします」♪♪「ひとり見る夢はすばらしい 君の踊るその姿」♪と二人の曲が始まり、ともにゴォーという地下鉄京阪線の音が地底から低く響いて来ました。「想像も付かない未来が始まるな」とう予感と先程の思い出が何度も甦り夜はふけ行きました。
本題に戻ると、二年後ハーバードの神学部を出られた、浅見定男先生からキリスト教学で、イスラエルや聖書圏では「ナオミ」という名前はとても大切なネーミングと教わりました。そしてこの曲も大ヒットしました。
17才 南沙織 人恋しくて 色づく街 また逢う日まで ゴッドファーザー ~愛のテーマ
シンシアのこの歌が出てきた六月ごろは私は18才になったばかりで、あなたはまだ歌の通り17才、なぜかお互いに青春の蹉跌の入口にさしかかり、生きてる実感がなく♪「私はいま、生きてる」♪というフレーズにいたく二人で共感しましたね。ちょぴりシンシアに似ているという噂もありましたね。
あと、秋から冬にかけて尾崎紀世彦が登場すると、その声量のすごさにあなたは驚嘆してましたね。「また逢う日まで逢えるときまで、別れのその訳は話したくない」の意味が最近理解出来ました。
そして、青春のアルバムの1ページを飾ってくれた、尾崎紀世彦さんに哀悼の意を込めて、合掌ですね。
結局、卒業がせまってましたが、電話もだめ、手紙もだめ、周囲からも仕切られ、逢うこともままならず、自分のメッセージが伝えられず、随分苦しい思いをしました。
そんなとき沢田研二さんの、この曲がヒットして「愛こそすべて」と悟ることが出来ました。もともと1967年7月7日に発表された、ビートルズの15枚目のシングルのタイトルです。のちにキリスト教を学び「聖書」の言葉と知りました。
♪「時はあまりにも はやく過ぎ行く 喜びも悲しみも すべてつかの間 ただひとつ変わらない 愛の世界 ラブ・ラブ・ラブ 愛ある限り Oh Yeah 愛こそすべてさ~」♪もともとビートルズの名曲です。
そして、この曲を口ずさみ信じながらも、どうすることも I Can notで卒業してしまい、舞台は仙台へと移りました。心あたりのある方に少しでも当時のわたしの苦悩が伝われば幸いです チャン チャン(苦笑)。
宮町のアパートのドアは白ではなくアルミ製で銀色かな、ただ、この曲がヒットしたのは上の沢田さんの曲と同時期でしたね。たしかペトロ&カプリシャスが登場したのは卒業間際の2月ごろで、前野さんのクールビューティが衝撃的でした。
そのとき歌の内容になにか暗示を感じていましたが、数年後、歌のストーリーと同じ形になったのが不思議なんですよね。
そして、津波のあとに探しに行きあのような再会、きっと、運命だったんですね。帰り際に病院の前であなたが、ちぎれるほど手を振ってくれたことは本当に嬉しかったです。私も車を運転しながらあなたの姿が見えなくなるまで全力で手を振りました。
当時「愛とは決して後悔しないこと」・・・と、若かった私も出会ったことを後悔したくなくて悩んだのです。
God bless you・by Fumi. (これからも貴方に神の御加護が有りますように)
青春パートⅡ
シクラメンのかほり 青葉城恋歌
この曲を聞いて ああ デガダンもありなんだなぁーと思いました。二日町に住んでた頃なので、けっこう国分町方面ではありきたりな風景だったのかな。
それともそんな時代だったのでしょうか。いまは世相もシビアになって、こんな叙事詩的な物語は受け入れられんのでしょうね。まったく、残念な時代になったもんですね。また、力を合わせれば報われる時代を目指しましょう。
オフコースは最高さ Yes-No Yes Yes Yes 愛を止めないで キラ キラ
キッスは目にして 恋におちて ダンシング ヒーロー ウィンク 浜田麻里 ランバダ
この歌がはやった時期、職場で六つ上のAさんと「この曲はエリーゼためにが元曲だね」なんて話をしていたら急に上司が現れ、会話をさえぎられそうになりました。すると彼女がそうっと目配せをしたのです。そのウィンクが自然でゆ~くりなんですが、なんとも色ぽっくて、目の前がクラッーとなり、あやうく卒倒しそうになりました。
麻布育ちだそうですが、あるとき「美味しいんだから!」とか言われながらも、信じられないような焼きそば店に案内されました。そして、あるハプニングがあり、昼食時間も過ぎそうなのに、いくら待っても私のだけ注文品が出来ず、結局、食べられずに怒って帰りました。
すると、今度はその食べ損なって怒る様子が「可笑しい」と、ずっとネタにして冷やかし半分に、いじわるに笑うのです。しかし、そのいたずらっぽい流し目の笑いも、しぐさも雰囲気も魅惑的で降参してしまいました。
その後、私の異動で離れてしまいましたが、数年前「藤崎」の初売りでお見かけしました。お話したかったのですが、娘さんと一緒だったようなので断念しました。小説「風に吹かれて」の「好野さん」のモデルの人でした。「三浦さん〜 最高~よ!」が口癖で早稲田の法学部でしたね。あなたの方こそ最高に素敵でした。
徳永英明 ジャスト ビコーズ 駅 DEEN TRF 華原朋美 デパーチャー
PRIDE Time gose bY 長い間 ひだまりの詩 マイ リトル ラバー チェリー スマップ
いよいよ職場も左まえになり時代世相も、現在を予知させるようなアホな職場環境になり下がり、歌詞にもあるように毎日が「愛のない人に会う~」の日々でうんざりして、毎週花金には相田さん啓子ちゃんと3人で、国分町を飲み歩きました。そんなときカラオケでこの歌をよく歌いました。
♪「今日ですべてが終わるサー 今日ですべてが変わる 今日ですべてが報われる 今日ですべてが始まるサー」♪まさにその通になりました。楽しかったです。
飲み会・パーティー・カラオケのオールラスト、エンディングのトリの定番はこれでした。遠藤美香さんの十八番でしたね。これを大合唱して、大盛り上がりで終了となりました。
何も言えなくて・・・夏 プロジェクトX「地上の星」 ヘッドライト・テールライト
♪「二人して生きることの 意味をあきらめずに」♪
この画の中に湘南の逗子か葉山あたりも出てきますね、わたしは江ノ電に藤沢から乗って鎌倉に向かい江の島、腰越と過ぎて、次に急に海が見え出す、鎌倉高校前駅のロケーションが好きで、わざわざあの風景を見るためにだけ乗ることがあります。あそこから見える相模湾は絶好の写真スポットですね。
と東京の友人達に吹聴したら急にあそこで写真を撮るひとが増えたそうです。「フム フム ヤッパリね 納得です」
会いたかった ヘビーローティション 風は吹いている 日はまた昇る・ネバーギブアップ
この曲を最初に耳にしたとき♪「会いたかった♪会いたかったーフミに~」♪と聞こえ「なぬ 俺に! ってか~」と思いました(笑う)。
Rock’n Roll
C・C・R G・F・R プラウドメアリー(LIVE1970) ホテル カリフォーニア
このC・C・RというのはCreedence Clearwater Revival クリーデンス クリアウォーター リバイバルといって「清涼飲料水復活」という意味で、なんとも人を食ったネーミングで、また、曲のプラウド メアリーは私から言わせるとほぼコミカルソングです。日本の「泳げタイヤキ君」と少し同じようなニュアンスです。
若き日々これで英語のリスニングをしたのですが、よく聞くとどうしても訛りが強く変だなぁ、と思ってたら、やはり、ニューオーリンズ訛りで、同じくブッシュ大統領のテキサス訛りの「俺ら 東京さ行ぐだ~」のレベルで参考にならず笑ってしまいました。しかし、歌詞と曲は陽気で、聞くとやたら元気が出ます。あと、「雨をみたかい」という名曲もありますので、こちらもどうぞ。
問題のヴィーナスです「悲しき鉄道員」もあります。ショキング ブルーというグループです。ビルボード全米第1位を1年間キープし、全世界でシングル300万枚を売上た驚異のヒット曲です。そしてまたエピソード満載のグループです。
この事はあちこちで同じような話題になりますが、1969年突然この曲がヒットしたとき、クラスでその歌詞の発音が話題になりました
曲の中で トーク セイ イエス と歌ってるのですが「トキバヤ」に聞こえると言うのです。つまり、I will venus im fire そして talk sey yes がトキバヤに聞こえるのだそうです。私には Jeorge sey yes ジョージ セイ イエス に聞こえるのですが、正解はトーク セイ イエス です。
グループがオランダ人なのでかなり訛ってます。皆様もお試しあれ。
アース&ファイヤー 高二の秋頃でしょうか?毎日聴いていたはずなのに、なんの思い出ともつながってません。思い出すのは二階の自室のステレオの前で、ただ聴いている自分の姿がいるだけです。
その頃は平穏無事で遠くの学校の女子と文通とかしていた頃で「コンドルは飛んで行く」が盛んに流れてましたね。
ここから半年後ですね、突如スーパースターのTさんが彗星のごとく現れ、わたしの胸に飛び込んで来て、ドラマが始まり、青春をより熱くさせてくれたのは(笑う)。
比較的長い曲で後半の部分でギターのソロと、詩を語り掛けるように歌うところが好きでした。英語も明瞭で内容もシンプルで何回か聴いていると意味がわかりそうな曲ですね。
追記:思い出しました。この年の秋に館崎で歌津魚竜の化石が発見され、その発掘に立ち会っていました。ここでも世界的な歴史に名が残りそうです(笑う)。
ちなみに昭和50年頃に仙台の瑞鳳殿の再建事業があり、その時、伊達政宗公の廟殿の発掘調査があり、それにも立ち会っています。
この映画は「アメリカン ニューシネマ」の象徴的な作品です。少し長くなります。
この頃、ハリウッド映画は何度目かの衰退期に入っていました。それまでチャップリンなどのサイレント映画から、音声も出るトーキー映画に進歩発展したアメリカ映画も、次の技術革新・イノベーションを待たねばなりませんでした。
そして次に起きたのがフィルムのカラー化やスクリーンのワイド化で、時期は第二次大戦前後からです。象徴的な作品が「風と共に去りぬ」です。
さらに毎週訪れる観客をつなぎ止めるため、意図的にスターを作り人気を盛り上げるために「ハリウッド スターシステム」という体制をつくりました。プロダクションがスターを管理しプロモーションをするのです。
人気とステータスをアップして「セレブ」を誕生させるという、現在の手法を構築しました。
その中で誕生したのが、マリリン モンローやイングリット バーグマンです。各製作会社も毎週必ず1作を発表しなければならないノルマが課せられました。しかし、そんなベルトコンベアー式で作らた作品はすぐに飽きられ、大手製作会社も制作予算を渋るようになりました。
そんな衰退期に登場して来たのが、まだ駆け出しでスタジオ組織に認められず、低予算で習作を撮っていた、ジョージ ルーカスやスピルバーグ、そして親分格のフランス・フォード・コッポラです。
コッポラは間もなく「ザ ゴッドファーザー」で巨匠になり、そして二十世紀映画界の大御所となりました。
そして彼らが描くものは当時、多くの人々が疑問を持ったベトナム戦争に否定的で、その反対からくる「反体制」がテーマでした。そんな中で1969年デニス・ホッパーが描くところの「イージー☆ライダー」が登場しました。当時野放しに近かった大麻などを扱い、この時期の彷徨うアメリカを写し出しています。
日本でも偶発的にでは有りますが影響を受け若者向けに、ホンダのCB750(佐重喜君の愛車)などの大型バイクが登場しました。ツーリングが流行り、賢ちゃんや徳幸君などの数人が三年生の夏休みに北海道、網走までのバイク旅行を敢行して、お土産のペナントを貰い、長い間自室に飾っていました。いま考えても大遠征ですごい事をしたもんです。
そしてまた映画の話に戻れば、西部劇などもジョン・ウェインとジョン・フォード監督の大御所コンビ作品も、あらかた撮り終えると一時勢いを失いましたが、制作費の安いイタリアで撮った作品が「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれ,クリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマなどがスターになりました。その時代環境に合わせて制作して成功した好例です。諦めないことです。
結局、映画の世界でも世の流行り廃れ、イノベーションは如何ともしょうがなく、むしろ、そんな時代の変わり目、撮影技術の変化や、映写形態の転換点に新たな大監督や作品が登場するようです。今ならさしずめYouTube(インターネット)の登場がそれに当たるようです。これからの時代の波に期待が持てます。
私も「ニューシネマ」に続く形で「J・F・K ダブル スティツ」と「ロッキード事件 野武士の時代」を撮りたいと物語を書きました。ぜひ、コッポラ監督とコラボしたいところです。そして小説
「J・F・K ダブル スティツ」は「ゴッドファーザー パートⅣ(四)・完結編」を目指したものです。
以上これらのストリーの展開で、二〇世紀最大の謎であるアメリカの、ケネディ大統領暗殺やウォーターゲート事件の闇に光を当て、同時に日本のロッキード事件の真相等を解き明かし、そしてまた「戦後レジュームとは何だったのか?」というテーマに作品で迫って行きたいと思います。
エジソン・ライトハウス(ポップス)のこと
このエジソン・ライトハウスの「涙のハプニング」と「マミーブルー」がヒットした時期が確か高三の秋だったと思うのですが、あまり精神状態がよくなかったのか、思い出せないのです。たぶん例の人のことで悩んでたころかも知れません。
「マミーブルー」については賢ちゃんに「カーチャン真っ青ってなにや?」とか質問した記憶がかすかにあるだけです。彼もまともには応えられなかったようで「う~ん 直訳そのままでいいんじゃないか」とか返答に困ってたようでした(笑う)。
で、グループ名のエジソン・ライトハウスについては「エジソンさんちの右隣の家」と思い込んでいました。なにせ電機メーカー(原子力発電の創始社)の「ウェスティングハウス」「西室家」があり、日本にも「東芝」があり、おまけに反対に「西芝」と言う電機メーカーもあると聞いてたからです。(けっしてネタではありません)
しかし、なぜかこのパーツは自分で調べるのも億劫で、そのままになってました。
それである時、私の英語の顧問をして頂いている七十七銀行、元ロンドン支店長の佐藤元良さんに、よもやま話に尋ねると・・・「英国では灯台のことをエジソンライトハウスと言ってたねぇ」とのことで、私にしてみれば「エエ~ッ ガチョーン」でした(笑う)。
佐藤さん曰く「エジソンが発明した電灯・Lightで照らしたからではないか?」と思われるとの説明でした。
わたしは時々こんな勘違いをする事があり、小学1年のときに習った「仰げば尊し」の♪「我が師の恩」♪を「和菓子の恩」と思ってたり「蛍の光」の♪「何時しか歳も~過の途を~明けてとぞ今朝は別れ行く」♪を
「~杉の戸を~開けてとぞ今朝は別れ行く」と思ってました。<木造校舎だったので杉の戸でした>
そしたらある時、上手がいて「ふるさと」の「兎追しかの山」を「兎追し蚊の山」と思ってたという人がいました。
当時から外国語の歌に関心があり、ポップス フォーク ロックはいい教材になりました。また、語源や地名のルーツなどを調べるのも趣味でした。ただ、ドナルド・キーンさんに言わせると、英国では地名などを辿る学問は、あまり大した評価はされないそうで、それが多少残念ではあります。
あと、ロックではジャニスとジミヘンがいるのですが、年代を経て自分では語れなくなりました。良く3人で評価した内、ジャニスの事はモーリーが一番詳しかったのですが「明日からヒッピーになる」と言ったまま出て来なくり、そして若くして亡くなってしまい、最後の頼みは山内孝樹さんなので、いつか彼に会ったら訊いてみたいです。またジミヘンは彼の方が詳しかったような気がします。
ジャニスは確かシカゴ大学ですよね。なぜ、あんなに自分を責めたんでしょう。まっ、この評価は当たってるかどうか?自信が無いのですが、とにかく、さぁこれから聴こうと言う時に、さっさと死んでしまったんで、その強烈な印象しかなく彼女の事を振り帰ると、いつも知的欲求不満と虚しさしか残りません。そのため「ジャニスの祈り」が先か「Move Over」が先かさえ分からなくなりました。残念ですね。
それで愛すべきモーリーの事ですが、6ヶ月後に出てきた時には髪が腰のあたりまで伸び、南沙織さんより長かったです。おまけに素足で「職員室用」と書いてあるスリッパで通ってました。
この辺がなんとも旧制高校流というか、階上中なのですが、むしろわが「粋で華の歌中」的というのか、その型破りなところに共感たのでした。ところが話したい事がいっぱい有ったのに、及賢と同じ頃に亡くなってます。残念といったら有りゃしません。合掌ですね。
こんな事もあったんですね。まったく信じられません。エルビスがブリッジ オーバーを歌ってます。なんか寿命があと80年伸びた感じです。これはYouTubeがなければ、絶対にお目に掛かれなかったですね。
ミチヒロがモミアゲを真似してたけど・・・このシーンに会えたのはモーリーからの知らせでしょうか。
演歌
提供 スカパー放送 テレビマン ユニオン
私も中学にあがる春先によく口ずさんでいました。屋体で「笹みどりショー」があった時は観に行きました。とても笑い上戸な方で観客の面白い質問に笑い転げてましたね。
誰かさんの十八番とは知りませんでしたが、思い当たるふしはあります。同じような感じかたをして
たんですね。
中学にあがる3月、大北の喜悦君の家に遊びに行くと彼が歌ってました。彼の生き方同様その歌い方が城さんに似て壮烈でした。その時も 姉の信子さんがいて談笑しました。合掌。
とにかく当時の日本人のすべての人が口ずさんだのではないでしょうか。たしか300万枚のヒットと記憶してます。間違いないでしょうか。すごい時代でした。
この年に阿川弘之先生の「雲の墓標」が発行されました。そして、テレビはNET制作でのドラマになり、また、東映で同時に映画化されました。テレビのナレーションは特攻隊の生き残りの、西村晃さんで松方弘樹さんも出演してました。
映画のほうには鶴田浩二さん、高倉健さん、松方弘樹さん、佐久間良子さんが出てました。私達は三年生の夏休み前の期末試験の後に、やはり、屋体で「艶歌」との二本立で観ています。
わたしには作家を志す動機を与えた、運命的な作品との出会いでした。
ところで、この曲がはやった時期が二年生の、秋の体育祭の応援練習と重なり、わが1ブロックのリーダー節郎氏がいたく好きだったようで、みんなで肩を組んで何度も何度も繰り返し歌いました。
校庭の南端のほぼ中央に今でも一本の桜の木がありますが、当時はまだ樹齢20年ぐらいの若桜で、その下に伊藤さんや及川さん、いつもの五学級の面々とたむろして、節郎氏の軍歌好きを冷やかして「俺達は同木の桜か?」(オナジ木の桜か?)なんて半畳を入れて楽しんでました。ひとつ先輩の彼も若くして亡くなりました。
それで先日、市民会館で歌謡ショー「夢コンサート」があり、いつもお世話になってる広告代理店の方からチヶットを頂き数人で楽しんできました。
そのなかで松方弘樹さんが「ぼくにはヒット曲がないから」と言ったので、わたしが「同期の桜」と声を出しましたら、すこし、気ずいてくれたようですが、ただ、あの場面では無理なのは判ってました。
チェリッシュ、狩人、千昌夫さんのメンバーですから、ちと場違いでした。でもいつかまた聴いてみたいです。
軍歌と言うと、「粋でいなせな」わが「華の歌中」は戦前は兵隊養成の「青年学校」が母体だそうで、そのためスパルタ式教育の名残が色濃く残っており、わたし達が学んだ頃も相当荒っぽくて、バンカラを通り越していました。このことは何時かまた書きます。
(一番荒っぽかったのはお前だろう)とヤジが飛んで来そうなので、此処はこの辺で止めます(笑う)。
この村木さんの声は父とそっくりで、よくこんな感じでこの曲を歌っていました。職業軍人で陸軍の諜報機関に所属して、終戦は大本営で迎えたと言うのですから驚きの人でした。
イクサが終わりそのまま日銀に行けと言われたそうですが、戦後の混乱を予測して母を先に帰らせ、終戦処理をして少し遅れて帰郷したようです。
軍の関係で児玉誉士夫等とも付き合いがあり、私が書いた「野武士の時代」のエピソードの多くは父から聞いた話が元です。
軍人生活を終えて漁師になった父は「あとは余生だ」とよく言ってました。ただ、勝気な母で大変だったようです(笑う)。
それでも海に出た時の漁師としての、腕の確かさと精悍さは、私などは遥かに及ばない、縄文系のハンタースピリット、狩猟人も「かくや」と思わされる、精度の高い獲物の仕留めぶりでした。
とてつもなく頭が良く、何度も舌を巻き多くの事を学びました。私にとってはまさにゴッドファーザーそのものでした。「汝の父を敬え」聖書の言葉です。
♪「背伸びして見る海峡を」♪
この曲がはやった時期に、ちょうど3千トン岸壁が出来上がりました。そして、その頃誰かの出船があり見送りに行きました。その時、大島と鶴が浦の海峡を、背伸びをして見た思い出があります。その海峡にいよいよ橋が架かるそうで、地元の長年の願いが叶うようですね。
気仙沼はこの歌がヒットした頃が一番輝いていましたね。200海里前で、出船入船の五色のテープ、さんざめく軍艦マーチがあちこちの船のブリッジから聞こえて、そして夜はあの大堀銀座のにぎわい、大田のざわめきは、横浜の元町を彷彿とさせましたね。
白馬もボチカも、なぜかラーメンが出るマンボ(笑う)も、Tさんが一緒に行きたいと言ってた喫茶店「赤と黒」も いまは夢の跡となってしまいました。
大人たちは♪「宮古 釜石 気仙沼~」♪が自慢でよく歌ってましたね。
父の十八番でした。 東京の灯よいつまでも 兄弟仁義
カスバの女 喝采 二日酔町の歌 追悼 藤圭子 女のブルース みちずれ 好きになった人
私的リバイバル
シェークスピア 夢一夜 My Heart Will Go On
20歳代に北杜夫さんの『どくとるマンボウ青春記』を読んで以来、信州・信濃路にひかれ夏休みは松本、蓼科、軽井沢などで過ごしました。
この時は新潮社の主催で中瀬ゆかりさんの案内で行きました。北さんは軽いウツでしたが由香さんが連れ出し、阿川佐和子さんと3人で文学のトークイベントでした。
すると北さんが得意の浪花節「森の石松」をやると言うのです。以前から自称音痴と公言しているので、固唾を飲んで拝聴していると、なんとその名調子には驚きました。まさに玄人裸足という感じでした。そのとき私は「音痴と浪花節は関係ないのだ」と心から感動しました。お元気なうちにもう一度聞いてみたかったですね。
民謡
賛美歌
アメリカの第二の国歌と言われる曲です。もともとアフリカからの奴隷船の船長をしていた人が、あるとき船中の黒人に対するあまりにもな惨状に心を痛めたのと、洋上での過酷な嵐からの生還に、神の存在を体感し、その後悔い改め、牧師になり作った曲です。
保久保田早紀さんの異邦人は私たちの青春時代の後半の頃だったでしょうか。中東のバザールやシルクロードのオワシスを思わせる雰囲気が印象に残る曲でした。
彼女はいま讃美歌や聖歌などを通じて、音楽で教会や聖書に親しみを持ってもらう、音楽伝導師の活動をしているそうです。素敵な生き方ですね。ところでカミュの小説のタイトルにもなっている「異邦人」とはキリスト教徒以外の人のことですが、久保田さんの生き方と、この曲が大ヒットした事もふくめ、何か神秘的で不思議なものを感じます。
ひまわりの小道 大阪中之島公園 クリスマス イブ ハレルヤ 百万本のバラ
ZARD 特別アルバム
提供 ミュゥモ ショップ
ZARDの坂井泉水さんの歌を聞き始めたのは1996年ごろ最初の小説「風に吹かれて」を書くとき、ある人から勧められたのがきっかけでした。
構想を練るときよくドライブをするので、猪苗代湖や桧原湖方面に出かけました。車中で聴くのには最高でした。そして高速道路ではどういう訳かこの「DAN DAN心魅かれてく」を聞くと、自然にスピードが出て、前の車を追い越したくなるので、飛ばし過ぎないよう自制の歌として聞いていました。
泉水さんとはひょんなことからコンタクトがとれ、仙台公演があったら必ず行くからと伝えたのですが、職場がおかしくなり行けませんでした。終わった次の日にかに気づき、申し訳なさで少しへこみました。
それから数年後2007年5月26日のわたしの誕生日に突然に亡くなりました。とてもショックでした。当時、わたしも六足かのワラジを履いて活動をしていたので泉水さんも若くて「飛ばし過ぎて生きたのかなぁ」とか思いました。彼女の人生って「何んだっんだろう」と今で思っています。合掌